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プロフィール

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現場実践に取り組んでいた頃の写真です。
◇このホームページを運営している八巻正治(やまき・まさはる)です。生育したのは北海道網走郡美幌町です。順天堂大学を卒業後に肢体不自由児の臨床現場に入り、そこで出会った子どもたちから人間としての真の価値や在り方を深く学びました。しかし激しい業務のために体調が維持できず、やむなく職を辞し、立教大学大学院での学びを経て、公募採用によって、これまで6つの大学(私立5校・国立1校)の福祉系&子ども系学科で勤務をしてきました。主な担当領域・分野は「ディスアビリティ福祉論」「精神保健福祉論」「社会的養護論」「子ども家庭福祉論」等でした。この間、 訪問教授(Visiting Professor)として、1992年8月から1年間、ニュージーランドの国立ワイカト大学において、さらには2015年4月から1年間、オーストラリアの王立メルボルン工科大学(RMIT大学)において国外研修の機会を得たことは大きな喜びでした。

◇2018年3月末日をもって勤務先の大学を定年退職となりました。非力な者ゆえ、研究者・教員として、さほどの貢献もできなかったのですが、恵みにより名誉教授職(Professor emeritus)に就かせていただきました。現在はクリニカル・ソーシャルワーカーとして、困難さを抱えている人たちへの寄り添い支援活動を行っています。
[春を待ち望む] [受講生の皆さんへ]

 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現われるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(新約聖書 コリント人への手紙・第二 第12章9節 新改訳2017)

※ここには私自身が経験した不登校の出来事について述べてあります。この経験は自分にとっては、いわば「負の歴史」であり、30歳頃までは決して表現しないようにしてきた出来事でした。それが30歳を過ぎる頃から、「こうした経験こそが自分を深めてくれたのだ!」との想いに達し、素直に表現ができるようになったのです。

◇幼き頃より、スポーツに勉強にそれなりの成果をあげてきた私は、高校へ入るや否や過敏性大腸群症を引き起こし、その結果、心身のバランスが乱れてしまい、次第にセルフ・イメージが健全に保てなくなってしまいました。とにかく学校に行くことが苦痛以外のなにものでもなく、ようやくの思いで学校へ行ったとしても勉強どころではありませんでした。それでも何とか学校へ行こうとするのですが、ついにめげてしまい、よく校門の前で「回れ右」をしてしまったものでした。校門から戻って来る私の姿を見て、登校してくる他の生徒たちは不思議そうな顔をしたものです。惨めな自分がそこにいました。当時は学校へはあまり行かず、空を流れる雲を、ただ眺めていることがよくあったのです。おそらくは、その頃から人が生きる意味を深く考えだしたのでしょう。じっさい、よく卒業ができたと思えるほどに高校には行かなかったのです。

◇そうなってくると自分に対する周囲の視線が次第に厳しくなってきます。「根気がない!」「さぼっている!」「みんな学校に行っているのに、なぜお前だけが・・」等々です。また何よりも自分自身に対する不満から家具類を壊し、家中のカーテンをハサミでズタズタに切り裂いてしまったことも一度ではありませんでした。思い返すのも辛い過去です。否、それ以上に、老いた両親はどんなにか悲しい思いだったことでしょう。あるときは思いあまった母親から、「アンタは、もう死んだものと思っている。・・」とまで言われたことさえもあります。そんな荒(すさ)みきった自分でした。ちなみに当時は不登校ではなく「登校拒否」と呼ばれました。自分としては別に拒否をしているつもりはなかったのですが、学校に行くことができにくかった者にとって、まことに肩身の狭い思いをさせられたのは事実でした。そしてやがて福祉の世界で生きることにつながったのは、私自身のこうした当事者経験があったからでした。

◇ともあれ、これではいけないと決心し、自分を鍛えるために順天堂大学(体育学部・健康教育学専攻)に進学することにしました。順天堂を選んだ理由は高校で保健を教えてくださった非常勤講師の先生の影響でした。物静かな感じの男性教師でしたが、理知的な雰囲気の授業が印象的でした。そこで授業の後で出身校をうかがうと「順天堂大学・体育学部・健康教育学専攻で学んだ。」との返答でした。初めて聞く大学名と専攻課程でした。不登校状態が顕著だった自分にとって、「これからは予防医学であり、健康増進医学の時代である。」との大学パンフレットの文章に深く共感しました。当時の順天堂は医学部と体育学部のみで、体育学部は男子だけでした。また現在もそうですが、1年次は全寮制でした。そのため、自分を鍛えるためには最適であると判断して順天堂大学しか受験をしなかったのです。落ちたときのことはまったく考えませんでした。幸い当時は倍率や難易度はさほど高くはなく、なんとか合格することができました。

順天堂大学での学び
◇授業は実にハードでしたが、私は水を得た魚のごとくに今までの分を取り戻すかのようにして学びに励みました。体育学部でしたから実技授業もあり、伊豆で実施された1週間の水泳実習の遠泳では、危ないために目立つ色の「赤帽10班」だった私は何度も溺れかけました。そのたびに、まるでトビウオのような「青帽」の同級生たちに助けられました。しかし結局は追試験になりました。バスケットボールの授業ではドリブルシュートがうまくできずに、熱心で優しい先生の個別指導を受けつつ、いちばん最後にようやくパスすることができました。唯一、蔵王のスキー実習では「青ゼッケン・1班」となり、南国育ちの「赤ゼッケン」たちをサポートすることができました。なお、少林寺拳法の有段者(少拳士二段)でもあります。

◇自分にとって関心の高い学びが多かったこともあり、授業の多くは最前列で聴き、試験の答案提出もギリギリまで粘りました。3年次には半年間、毎週、お茶の水にある医学部に通って人体解剖実習も行いました。すでに父親が年金生活だったため、夏期・冬期・春期休業中にはアルバイトに励みました。勉学、アルバイト、ボランティア活動等で明け暮れた四年間でした。その結果、少しは逞(たくま)しくなったかに見えました。

◇やがて大学3年生の頃より将来のことについて考え始めました。YMCAや福祉施設でのボランティア活動を通して、次第に肢体不自由児の臨床現場に関心を持ち始めました。しかし実際の現場の様子を知るにつれ、「こうした世界で実際に仕事をするのか?」と自分に問いかけた時、「あんな汚い仕事は嫌だ!」と、内なる自分が答えたのです。つまりはボランティアは良いが、それを自分の仕事にするのは嫌だ、ということです。そうした自分自身の偽善性が許せなくなり、私はまた次第に混乱し始めたのでした。

◇あまり学校にも行かずに、ひ弱だった自分が順天堂大学で鍛えられ、それまでの学習の遅れを取り戻すべく一心不乱に勉学に励みました。そうしてやがて自信を取り戻すと、次第に「宗教などに頼るのは弱虫のやることだ!」「自分は最後まで自分の力で生きてみせる!」といった考えを持つようになり、ひたすら自分のみを頼る生き方になってゆきました。しかしそうした自信過剰気味の自分が、前述したように、福祉の世界で生きることに強いためらいを感じてしまった、といった自己不一致の問題をどうしても解決することができず、次第に絶望の暗き淵にはまり込んでしまったのです。

◇そんなある日のことでした。ふと気づくと、大学の寮のすぐそばにキリスト教会があることに思いが至りました。3年間、まるで気づきませんでした。そこでその教会(ホーリネス系の教会)に通うようになりました。教会に通うようになったといっても、最初は日曜日の朝に行なわれる礼拝ではなく、夜に行なわれる集会(夕拝)に出席するようになったのです。しかし熱心に聖書を読み、お話を聴き、祈ると、御言葉が、まるで砂地が水を吸い込むがごとくに垂直に私の心の内に入ってきました。そのため、その数ヵ月後には洗礼を受けることを願い出たのでした。私の弱さを贖(あがな)うためにイエス・キリストというお方が十字架上で身代わりとなって死んで下さったことや、弱さを内包した、ありのままの自分でも神さまに愛されているのだ、ということを知ったのです。ことさらに自分自身を誇ったり、逆に必要以上に自分の弱さを責め、傷つけ、苦しむことはないのだということを知ったのです。深い安堵感が私を包みました。

◇私は自分の誕生日(4月25日)に洗礼を受けることを希望し、その日が平日であったため、洗礼式は私と牧師先生の二人きりでした。そして江戸川放水路に行き、ヘドロに汚れた水を、牧師先生のオートバイのヘルメットに満たし、「父と、子と、聖霊との御名によって洗礼を授ける、ア〜メン!」と三度頭にかけられたのでした。しかしこの泥水が、これまでの自分の弱さを洗い流してくれた「聖なる清き水」であったことを思うと感謝でいっぱいでした。

養護学校時代
◇順天堂大学を卒業した私は、直ちに東京都の肢体不自由児養護学校に勤めることになりました。養護学校以外は考えていなかった私は、教員採用試験の二次面接の際に、「このままでは一般学校に採用されてしまう!」と考え、面接の最中に「私は養護学校で働きたいと思っていますので、どうか一般学校へは回さないで下さい!」とお願いしたところ(当時の東京都の教員採用試験は一般学校のみの試験制度でした)、2人の面接担当者から「ぜひ養護学校で、がんばって下さい!」と逆に励まされたことを覚えています。

◇当時は都道府県ごとに試験日が異なっていたため、神奈川県も千葉県も受験ができ、幸いにして両県とも合格することができました。しかし夜学での学びを続けたいと考えていたため、通学の際の利便性を考えて東京都で働くことにしました。そして教育学を学ぶために青山学院大学の夜間部に学士編入をしたのです。さらに卒業後には養護学校の教員免許を取得するために東洋大学の夜間部での学びを重ねました。しかし何とか卒業はできましたが、仕事を終えてからの学びは困難で、疲れ切った体では思うような学びができませんでした。教育学を学ぼうとしたのは、不登校経験を有する者として、学ぶことの意味や、教えることの意味について考えてみたかったからです。

◇そうした生活の中で次第に体の不調を感じるようになってきました。最初は朝起きた時に、なかなか疲れがとれないのです。そしてやがて布団の上げ下げが辛くなってきました。ちなみに私は高等部の所属で、教科は保健体育でした。そのため、毎日、自分の体重ほどの生徒たちの介助業務が仕事の大半を占めていました。外のプールでの授業の時には、着せ替えから始まり、生徒を抱きかかえたままでプールに移動して、中腰状態のままで仕事をします。腰に良いわけがありません。やがて腰痛症に加えて、頸肩腕症候群で腕がだるくなり、書写が困難になりました。そして「頸肩腕症候群および腰痛」の診断によって勤務軽減となり、ついには病気休職になってしまいました。さらには公務災害認定患者にもなってしまいました。

◇東京にいても辛いことが多いため、しばらく故郷の北海道に戻ることにしました。時には腕がだるくて箸(はし)すら持てずに、スプーンで食事をとるような状態でしたが、ふるさとの大自然が織りなす雄大さや、両親の愛が私の傷を優しく包んでくれました。年老いた父親は沢山のお菓子を買ってきて、「これはお前が好きだったお菓子だから食べろ。食べて早く元気になれ!」と励ましてくれました。おそらく心の中では、どんなにか「もうそんな仕事はやめろ!」と言いたかったに違いありません。しかし両親の口からは、一度としてそうした言葉を聞いたことはありませんでした。こころ優しい両親でした。

◇町役場の職員であった父親は町民相談室長として、さまざまな困難を抱える人たちへの関わりを続け、自宅には、いつもそうした人たちが父親を訪ねてきていました。また母親も、父親と結婚したときには、すでに4人の子持ちの状態でした。なぜなら父親の両親が早くに死んでしまったため、父親は私にとっては叔父・叔母にあたる幼き弟や妹たち4人を、自分の子どもとして戸籍に入れて育てていたからでした。そのため、母親は結婚と同時に4人の子持ちになってしまったのです。その後、8人の子どもを産んだため(その内の1人は乳児の時に死亡)、計12人の子どもたちを育て上げたことになります。役場職員の収入だけでは生活は厳しく、畑仕事をしたり、母親が日雇いに出たりしながら育ててくれたのです。実に立派な両親でした。

◇やがて痛む腰を抱えながら職場に復帰した私は、こうした仕事は、人一倍、壮健な人間のみが為し得ることができるのだということを改めて知るに至りました。腰痛を抱えている人間は、その分だけ他の職員に余分な負担をかけてしまうからです。そのため、通常学校をはじめ、他の種別の特別支援学校への異動を勧められましたが、不器用な私はそうした勧めに応じることができず、また立教大学大学院に合格したこともあり、わずか5年足らずの肢体不自由児養護学校での働きを終えることになったのです。


◇これまで私が研究上のメインテーマとして位置づけてきたのがソーシャル・インクルージョン(Social Inclusion)研究です。より具体的にはコミュニティ・インクルージョンです。私の表現をもって説明をするならば、ソーシャル・インクルージョンとは「すべての人が、その人なりに尊重されつつ、その人なりの最善の在り方を目指すことが可能となる社会づくり」を意味します。

◇インクルーシヴ社会構築の前提としては、人間を表面的(外面的)な能力を以て価値づけようとする『価値愛』ではなく、「その存在そのものに対して絶対的な価値を見いだそう」とするところの『絶対愛』に立脚した人間理解が必要であると私は考えています。さらには、個々人の相違性や特性を相互に受容し合い、是認したうえでの穏健なる社会変革をも巻き込んだホリスティック(holistic)な社会の形成こそがインクルーシヴ社会構築にとって重要、かつ必要不可欠なまなざしと考えています。私の場合、それを南半球に位置しているニュージーランドとの関連で学びを進めてきました。その結果、1年間の在外研究期間を含め、これまでニュージーランドへは計17回の訪問回数を数え、またオーストラリアへも、計10回の訪問を重ねました。

◇1987年に「非核法」を制定し、「核を造らず・持たず・持ち込ませず」の、原発によらないポリシーを堅持しているニュージーランドは、すぐれた福祉国家であり、かつ行財政改革の先進国でもあります。また、同時にすぐれた多民族・多文化国家でもあります。多民族・多文化国家として成熟の度を増し加えつつあるニュージーランドでは、先住民族であるマオリ民族との共存共栄をめざしており、それはすなわち、わが国におけるアイヌ問題をとらえるうえで、きわめて有益と判断されます。なお、ニュージーランドの公用語は英語とマオリ語(さらには手話も公用語です)のため、同国の正式名称は『アオテアロア/ニュージーランド(Aotearoa/New Zealand)』です。

◇もうひとつは、困難さを抱えている子どもたちや、その関係者たちへのクリニカル・ソーシャルワークです。私は社会福祉分野の国家資格である精神保健福祉士(第32657号)&社会福祉士(第114083号)の有資格者なのですが、これらは、それぞれ日本福祉教育専門学校、および日本福祉大学の通信教育課程で学び、受験資格を得て取得しました。さらには福祉系大学院の博士後期課程でも学びましたが「単位取得満期退学」で終えました。これらに加えて必要な講習会を受講し、資格試験を受けて産業カウンセラー(第S1902263号)の資格も得ました。個人的にはエニアグラム(enneagram)やアドラー心理学、さらには交流分析理論をベースとした支援論にも関心を有しているのですが、私自身が高校時代に不登校経験を有する当事者であったため、健全なる自己肯定感(より正確には自他肯定感)の醸成について強い関心を有してきたことが、その背景にあります。

◇そのときどきの必要に応じて、通学制・夜間部・通信制といった、さまざまなスタイルでの学びを重ねる中で残念な出来事もありました。以下の文章は、当時勤務をしていた大学の学長に提出した「学位等に関する説明文書」の内容の一部です。自分なりに微力を傾注した学びでしたが、以下のような経緯があったため、教員公募への応募書類や、学部・学科を新増設する際に受ける文科省の教員判定審査のために提出する書類には記載をしなかったのです。以下、説明文書の一部です。

 下記の事由により、本学への応募書類、および今回の文科省申請用の履歴書には記載しませんでしたが、私は米国の通信制大学院より博士号を取得しております。当然ながら選考試験を経て入学し、正規の授業料を納入し、必要とされるコースワーク(単位取得)をこなし、学位論文審査をクリアして修了に至ったものです。学位記、および成績証明書を同封しました。

 添付した資料にも明記されてありますように、同大学は米国カリフォルニア州による認可大学、すなわち「Approved University」であり、カリフォルニア州政府より正式な学位授与権を得ております。しかし現時点において「西部地区大学基準協会(WASC)」からの基準認定(Accreditation)は得ておりません。したがって、いわゆる「Degree Mill」とは異なります。現時点において西部地区大学基準協会(WASC)による「Accreditation」を得ていないということです。ただ、それを日本国内でどのように評価するのかについては私個人の判断を超えています。しかし、どうやら文科省は「Accreditation」を得ていない大学を、あまり信用していないように思われます。そのため、無用な誤解や混乱を回避する目的で、学歴欄には記載しませんでした。


◇このように、当時勤務をしていた大学の学長宛に説明文書を提出し、申請書類の履歴書には記載しませんでした。米国の大学における基準認定(Accreditation)をどう評価するのかについての判断は私には難しく、そのため文科省の教員判定審査用の申請書類へは記載をしなかったのです。さらにはその後も履歴書には記載をしてきませんでした。なお、わが国の場合は「公益財団法人・大学基準協会」「公益財団法人・日本高等教育評価機構」等がそれに相当する認証機関と考えられます。

◇1科目を履修するために数万字分の課題レポートを提出する必要があったりして、非力な私にはハードな学びでしたが、ニュージーランドに関するテーマで学位論文を作成したこともあり、自分なりに意味のある学びができたと思っています。ちなみに学位論文の内容の一部は『アオテアロア/ニュージーランドの福祉 −インクルージョンのまなざし−』(学苑社 2001年)として出版されました。私自身の判断で、これまで応募書類や申請書類等には記載してこなかったこともあり、個人的には今後、良い形で落ち着くことを願っています。その点、わが国の場合は許認可権が文科省にあるため、分かりやすい構造を有していると思われます。

◇その後、わが国においても、大学や大学院の設置母体が学校法人に加えて株式会社であったり、従来型の大学・大学院ではなく、専門職大学や大学院といった新たなスタイルでの大学設置がみられるようになりました。さらには高速インターネットを活用してのオンデマンド型学習システムが進展し、いわゆる Global Education System における Distance/online Learning や E-ラーニング(e-Learning)といった学習形態や、遠隔授業と対面授業とを併用したハイブリッド型学習システムも急速に整備されてきました。それに伴い、こうした International open University スタイルでの学びの質(quality)をどう評価し、制度的に位置づけるのかについて今後、明確に整理がなされてゆくことを願いつつ、期待したいと思います。

◇ワイカト大学の訪問教授(Visiting Professor)として在外研究に従事しながらニュージーランドについての学びを深めるにつれて、この国が有する多文化のまなざしを、私が生育した美幌町に紹介したい、との篤き想いが与えられました。そこで、ワイカト大学のあるハミルトン市に隣接しているワイパ地区・ケンブリッジに対して姉妹都市提携を働きかけました。「The Town of Trees 」と称され、「美しくて清楚な街」と表現されることの多いケンブリッジは、街の美しさと共に、こころ優しい人びとが住むニュージーランドの田舎町です。

◇さまざまな困難がありましたが、多くの方々の尽力の結果、ワイパ地区・ケンブリッジと、私の故郷(ふるさと)である北海道網走郡美幌町との間で姉妹都市提携の実現に至りました。そのことについては『姉妹都市提携への歩み』や、私がケンブリッジ地域評議会に招かれて行った姉妹都市提携のためのスピーチ、さらには新聞記事を、お読みください。なお、ケンブリッジ&美幌町、それぞれの自治体名をクリックすると姉妹都市提携に関する記事を読むことができます。さらには姉妹都市提携調印式の際に作成された首長による挨拶文も、お読みくださると感謝です。

◇ただ、多民族・多文化国家であるニュージーランドの場合は、そもそも国際交流の概念が、わが国の場合とは異なるため、交流のための予算措置が不充分でした。具体的には、美幌訪問の際の公的補助が皆無に等しかったのです。そのため美幌との交流のために活用してもらう目的で、13年間勤務をした四国学院大学から公募採用で梅花女子大学に転任をした際に得た退職金の全額を献げ、それを原資として『ラブリー・ファンド』という交流基金を設立しました。ニュージーランドの場合、年利率で5%以上の利息がつきますが、その利息を活用して相互交流を図ろうと考えたのです。

◇幸い、ケンブリッジ側の関係者たちによってこの基金が有効に活用され、美幌町との間で定期的な相互交流が展開されていることを深く感謝しています。なお、このことについては『オセアニア旅日記』にも書き述べてあります(「ケンブリッジ」「マーレィ」「ラブリー・ファンド」の項目))。また、基金の運用状況については、基金管理者の一人であるウェンディからの報告文書を、お読みください。なお、元・ワイパ地区の副首長を務めた友人のGrahame からのメールには、2020年7月時点での基金額が記載されています。

◇2017年10月には姉妹都市提携20周年の記念パーティが美幌町で開催され、短いスピーチをさせていただきました。まことに拙きスピーチでしたが、心を込めて語らせていただきました。私は乾杯の前でのスピーチをお願いしましたが、それが聞き入れてもらえず、やむなく乾杯の後でした。そのため、予想されたように後部座席の人たちの話し声がやまず、静かに聞いてもらえなかったことが残念でした。実は、1997年の姉妹都市提携当時のパーティの際にも、同じく乾杯の後でのスピーチだったため、会場が騒がしくて困りました。ちなみにそのときはパーティ会場の外での喫煙をお願いするのにも苦労しました。喫煙・飲酒をまったくしない自分にとって、こうした小さな苦労も数多くあったのです。[スピーチ映像]

◇ともあれ、だれからも依頼されたわけではなく、私ひとりの「小さな夢」からスタートしたビジョンが、多くの関係者たちの尽力を得て、こうして豊かな結実をみていることを心から感謝しています。

◇アイコンをクリックすると、2012年にケンブリッジの人たちが美幌町を訪問した時に行われたアイヌの人びととの文化交流の画像や、それに関連した新聞記事を見ることができます。   

   
◇私はあるとき作家の三浦綾子さんが書かれた『塩狩峠』について語らせていただいたことがありました。この小説は実話をもとにした小説ですが、その中で、主人公である信夫(実名は長野政雄という人です)が路傍伝道でキリスト教の話を聞き、その後、その伝道者の家で「私は本当にイエス・キリストが神の子であること信じます・・」と告白した箇所があります。その時、その伝道者は信夫に向かってこう言ったのです(以下の文章は、思い出しながら書いていますので、表現は正確ではありません)。「それでは、あなたがイエス・キリストを十字架につけたということを信じますか?」それに対して信夫は、「とんでもない! それは2000年前の出来事でしょう? 僕はイエス・キリストを十字架につけた覚えなどありません!」と答えたのでした。するとその伝道者は、「それでは、あなたとイエス・キリストとは何の関係もありません・・」そう言ったのです。すなわちイエス・キリストを十字架につけたのは何よりもこの自分自身なのだ、ということなのです。つまりはそうした認識においてこそ、初めてイエス・キリストと自分とが時空を超えて一体化することになるのです。

◇私はこのエピソードをお語りしながら、自分自身のこれまでの遅々とした歩みの数々を想い、思わず胸が詰まってしまい、言葉が途切れてしまいました。私がキリスト教の洗礼を受けたのは大学四年生の時でしたから、もう随分と前のことになるのですが、これまでのモタモタとした歩みの中で、神さまがどれだけこの自分に良くしてくださったのか、といったことを思い起こす度に、今でも胸が熱くなってしまうのです。まさに主イエス・キリストは時空を超えて私の中に存在し、今も生き続けておられるのです。

『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。』(第2コリント 5:17) 聖書にはこのように記されてあります。『イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。』(ヘブル書 13:8) 聖書にはこのようにも書かれています。

◇あるとき母親が私に向かって、「神さんって、ほんとにいるんだね!」そうポッリと言ったことがありました。「アンタを見ていると、そう思う・・」そう言うのです。これは私を褒める言葉ではなく、「不登校の苛立ちの中で、あれほど親に心配をかけ、親を泣かせてきた息子が、こうして何とか生きているだけでも奇蹟だ!」そう思ったに違いないのです。それゆえ私は、主イエス様の十字架のご恩寵の数々を想うとき、いつも感謝の想いで満ちあふれるのです。なぜなら、私にとって十字架の愛とは理屈ではなく、私の「いのち」を支える根源であるからです。

◇聖書には
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙 8:28)との御言葉が示されています。このことを思うとき、すべての出来事が愛なる神さまの御手(みて)のなかにあったことを知り、感謝の想いであふれるのです。

◇私はこれまでの自分自身の歩みを静かに振り返るとき、謙遜でも何でもなく、誇るべきものが本当に何もないことを深く感じます。しかしこのような乏しい自分であってでさえも、神さまがその時々において確かに護ってくださり、あるいは必要以上にこの自分を用いてくださったことを強く覚え、感謝の想いで満ち溢れるのです。


『心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人たちのものである。』(マタイによる福音書 第5章3節)

◇かつて、ニュージーランドでの在外研究を終え、1週間ほど帰国した後、今度は2ヵ月間の予定でデンマークに出かけることになりました。短期間の内に南半球の端から北半球の端まで移動したことになります。

◇デンマークの聖書学校の寮に滞在しながら現地の福祉事情を体験する日々の中で、どうしても聖地イスラエルに行ってみたくなりました。そこで、リュックサック1つでコペンハーゲン発の安いチャーター便を利用して、2週間のイスラエル旅行に出かけることにしました。イスラエル旅行の目的はひとつでした。それは主イエス様が『心の貧しき者は幸いなり・・』で始まる「山上の垂訓」で、人々に「いのちのことば」を語られたガリラヤ湖畔にどうしても行ってみたいと思ったからでした。

◇エルサレムからバスで数時間揺られながらガリラヤ湖のあるティベリアに辿り着き、念願叶ってその場所に佇むことができた私は、沸き上がる感動で胸がいっぱいになりました。

◇聖書の記事によると、ときとして1万人を超える人々が主イエス様のお言葉を聴いたことが記されています。「どうやって数多くの人々に語られたのだろう?」そのことが、かねてよりの疑問でした。しかし丘の上からガリラヤ湖に吹く風に乗せて、主イエス様の御声が人々に届くことを自らも体感することができ、深い感動を覚えました。そして、そこで私もまた、主イエス様の御声を聴くことができたような気がしたのでした。

◇主イエス様のお言葉は、私たちがそれを謙遜なまなざしをもって主体的に聴こうとしたとき、かすかなれども、一人ひとりの心底に、深く、そして明確に伝わってきます。そして私もまた、主イエス様の御声、すなわち「いのちの御言葉」に聴き従った結果、こうした、まことに弱き、乏しき自分でさえも、暗き淵より引き上げ、活かし、喜びで満たしていただけたのです。まことにもって、感謝のきわみです。

※「肺炎」からの癒し・・以下の文章は、私自身の出来事についてまとめてみたものです。

◇私は勤務先の許しを得て、2015年3月から南半球のオーストラリアのメルボルン市にある王立メルボルン工科大学において1年間の研修の機会を得ました。そうした中で2015年11月2日に、調査目的のために、メルボルンから飛行機で約1時間半ほど離れた、オーストラリアの首都であるキャンベラを訪れました。そして空港から500メートルほどしか離れていないホテルに滞在しました。そのホテルは新築で、ドアの前に赤いテープが貼ってあり、テープカットをして部屋に入りました。聞くと、私がその部屋の最初の宿泊者であったから、とのことでした。面白いですね。

◇部屋のドアを開けると、これまで未使用状態だったためか、ムォ〜ッとする、何かカビ臭いような独特の臭いが漂ってきました。そこで部屋の換気をしようとしましたが、窓を開ける構造にはなっていませんでした。加えて部屋がとても寒く、外気温との差がありました。

◇その日の夜から、初めて経験するような両胸と胸の中心部の激痛が始まり、あまりもの痛さで何度も気絶しそうになりました。さらには体が激しくブルブルと震え出し、自分の意思ではコントロールできない状態に陥りました。肺炎に罹患したのが初めてだったため、激しい胸の痛みや、全身の震えの原因が分からず、恐怖に怯えました。

◇部屋にはドライヤーがなかったため、シャワーを浴びた後の体の拭き取りが充分ではなく、濡れた体のままで冷房にさらされました。冷房のスイッチを切らなかった、といった私自身の不注意もありました。そのため、おそらくは、それまで未使用状態の部屋に充満していたであろうと思われる病原菌に容易にやられたのだと思います。後日、ドクターに聞くと、日本とは自然環境が異なるため、そうした環境に対する私自身の免疫力が弱く、病気に罹患しやすかったのではないか、とのことでした。

◇そうした激しい痛みの中で、以下のような不思議な体験をしました。

◇上を向いて寝るのも激痛で、横になるのは、もっと激痛でした。それでも我慢して上を向いてベッドに横たわっていると、とても不思議なことが起こったのです。

◇激痛の中で、なぜか「愛なる神さま。この激しい痛みはゲッセマネの園で主イエス様が経験された苦しみを私にも体験させてくださるための痛みなのですね?」との想いがわき起こり、私の両ほほから涙があふれ出てきたのです。「あふれ出てきた」と表現して良いほどの涙でした。そして激痛の中で、「神さま、感謝します!」と、思わず声に出していたのです。「神さま、どうか癒してください!」との言葉ではなく、「神さま、ありがとうございます!」との言葉が出たのです。このとき、どうして「ゲッセマネの園の祈り」が自分の中でイメージされてきたのかは分かりません。聖書には以下のように書き述べられています。

・・それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」(ルカによる福音書・第22章39節−46節)

◇むろんのこと、主イエス様の苦悩に満ちた激しい祈りとは較べるべくもありませんが、愛なる神さまの御心(みこころ)を受け容れることの厳しさを少しだけでも体験することができたことは確かです。ちなみに、エルサレムにある、ゲッセマネの園と伝えられている場所には私自身も実際に行ったことがあります。そこには主イエス様がここで祈ったと伝えられている大きな岩がありました。

◇さて、キャンベラのホテルの部屋で2日間、苦しみ続け、メルボルンに戻る前日にホテルスタッフの紹介で、キャンベラ空港の近くの医療クリニックに行き、1週間分の薬を処方してもらいました。その翌朝にホテルスタッフの手を借りて空港まで歩き、さらには空港スタッフの助けを得て飛行機に乗り、メルボルン空港まで戻ってきました。しかし飛行機のタラップを降りてからは激しい両胸の痛みで一歩も動けず、車イスに乗せられたままの状態でタクシー乗り場まで押してもらい、そのままタクシーに乗って居住先まで戻ってきました。それからは、ひたすら安静状態でした。まるで食欲がわかず、2週間あまり、誇張なく水分のみの生活を過ごしました。肺炎罹患の恐ろしさを実感しました。その後、日中の数時間は小康状態を得ましたが、朝夕には決まって微熱と悪寒、といった不安定な状態が続きました。

◇その後、小康状態を保ちつつ12月に入り、医師の指示で再度の肺のレントゲンを撮った結果、肺に水がたまっているとの診断で、専門医の診断を受けることになりました。その結果、肺に貯まった水が増えている、との専門医の診断でした。およそ300ミリ・リットル程度だろう、とのことでした。そのため総合病院に検査入院をすることになりました。

◇それから5日後の12月14日に、カトリック系の総合病院に検査入院をしました。私の背部から検査針を刺して水を抜き取るために、エコーで水の位置を確認しようとした検査スタッフが、「ハテ、水が見えない?」と言い始め、何度か試した後で検査が中止になってしまいました。続いて行われたCTスキャン検査でも、まったくその兆候が見られなかった、との検査結果を専門医から聞かされました。つまりは、わずか5日間で、私の肺から300ミリ・リットルの水が完全に消え去っていたのです!

◇実はこの間、私は日本にいる親しいクリスチャンたちに癒しの祈りの要請をしていたのです。そのため、日本で私の癒しのための祈りを熱心に続けてくださっていたのです。その結果、愛なる神さまからの「癒しの御手(みて)」が差し伸べられ、私は肺炎から癒されたのです。私はそう信じています。同時に、これから自分がなすべき役割を示されたような気がしたのです。

◇肺炎という病気に罹患したこと自体は、まことに不運な出来事でしたが、そのことを通して愛なる神さまのご配慮が私に加えられたことを心から信じ、深く感謝しています。

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