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◇福祉は「支え合い」のまなざしから成り立っています。すなわち、絶えず他者の幸いを願うまなざしから成り立っているのです。そうすると、その分だけ、誰かが必ず自分のことを気に掛けてくれる筈だと思うのです。私自身は、そうした「支え合い」のまなざしを信じ、求め続けたいと願っているのです。

◇以下にお示しする、いくつかの文章は、私自身が希求し続けているまなざしです。まことにもって、心いたらぬ遅々たる歩みの連続の自分ですが、日々の歩みを重ねつつ、これらのまなざしの、ほんの少しの部分だけでも心静かに受容できたら、と願っているのです。

◇灰谷文学の中で『太陽の子』と双璧をなすのが『兎の眼』ではないかと思われます。この本を読んで教員になろうとした人たちも多い筈です。私自身もこれまで何度も読み返した本です。

◇「・・あいかわらず善財童子は美しい目をしていた。人の目というより兎の眼だった。それはいのりをこめたように物を思うかのように静かな光をたたえて美しかった。」『兎の眼』にはそう書かれてあります。灰谷さんは子どもたちの「つぶらな瞳」を善財童子の眼に譬えたのです。

◇さて、この善財童子とは西大寺(奈良市)にある小仏像のことです。あるとき大阪で学会があり、その帰路、西大寺に立ち寄り、念願かなって善財童子と対面をすることができました。幸い、ひっそりとした雰囲気だったため、しばらくの間、この小仏像と静かに時を過ごすことができました。至福の時、とでもいうのでしょうか・・。そんなことがありました。

◇私はクリスチャンなのですが、こうした穏やかな顔立ちの仏像をみるのが好きです。「祈りのこころ」をそこに感じるからです。「祈り」「平安」「祝福」「平和」「希望」「喜び」「感謝」「美しさ」等々は、時代を超え、思想信条を超えて人びとが常に願い求めてきたまなざしです。私もまた、お互いを尊敬し合い、穏やかなまなざしを保ちつつ、日々の歩みを重ねてゆけたらと願っています。


 変えてゆく
◇これは2010年6月23日に、糸満市摩文仁の平和祈念公園で開催された沖縄県主催の全戦没者追悼式において、県立普天間高校3年・名嘉司央里(なか しおり)さんによって読み上げられた自作の詩です。
今日もまたはじまる/いつもの日常/当たり前に食事をして/当たり前に好きなことを学んで/当たり前に安心して眠りにつく/そんな普通の一日
今日もまたはじまる/いつもの日常/当たり前に基地があって/当たり前にヘリが飛んでいて/当たり前に爆弾実験が行われている/そんな普通の一日

一見「平和」に思えるこの小さな島/そこにいつの間にか当たり前ではない/当たり前であってはならないものが/入り込んでしまっていた
普通なら受け入れられない現実を/当たり前に受け入れてしまっていた

これで本当にいいのだろうか

平凡な幸せを感じながら/ただただ「平和」を望む今/簡単にこの違和感を/無視していいのだろうか
黒いたくさんの礎/刻まれるたくさんの名前/そこで思い知る/戦争が残した傷跡の大きさ深さ/何も幸せなど生まれなかった/何も手に入れたものなど無かった/すべて失ったものばかりだった

忘れてはならない/この島であった悲しい記憶/目を背けてはならない/悲しい負の遺産/それを負から正に変えてゆく/それがこの遺産を背負い生きてゆく/私達にできること

変えてゆくのは難しい/しかし一人一人が心から/負である「戦争」を忌み嫌い/正である「平和」を深く愛する/そんな世界になれば/きっと正の連鎖がはじまるはずだ

六月二十三日 慰霊の日/あの黒いたくさんの礎には/たくさんの人々が訪れる/そして その一つ一つの名前に触れ/涙を浮かべながら語りかける 「今年も会いに来たよ」と/手を合わせ目を瞑(つぶ)り祈りを捧(ささ)げる/その訪れた人々に/「平和」を願わないものはいない

「一度あった事は二度ある」/そんな言葉を聞いたことがある/しかし こんな悲惨な出来事は/もう繰り返してはならない/だから……/「一度あった事は二度とない」に/変えてゆこう 平和で塗りつぶしていこう

その想(おも)いはきっと届いているはずだから

 Footprints(あしあと)
◇『Footprints』と題されて広く知られている、この美しい英詩から、苦しみや困難に出会ったならば、自分一人で悩みや困難を抱え込むのではなく、自らの弱さや悩みを信頼できるお方(神様)に素直に委ねることの大切さを教えられます。こうした静かなるまなざしをもって、一日、ひとひを穏やかに歩みたいものです。なお、この詩は原作者である、マーガレット・F・パワーズさんの『あしあと』(松代恵美訳 太平洋放送協会 1996年)より引用しました。
  One night I dreamed a dream.
 I was walking along the beach with my Lord.
 Across the dark sky flashed scenes from my life.
 For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
 one belonging to me
 and one to my Lord.
 When the last scene of my life shot before me
 I looked back at the footprints in the sand.
 There was only one set of footprints.
 I realized that this was at the lowest
 and saddest times of my life.
 This always bothered me
 and I questioned the Lord
 about my dilemma.
 "Lord, you told me when I decided to follow You,
 You would walk and talk with me all the way.
 But I'm aware that during the most troublesome
 times of my life there is only one set of footprints.
 I just don't understand why, when I needed You most,
 You leave me."
 He whispered, "My precious child,
 I love you and will never leave you
 never, ever, during your trials and testings.
 When you saw only one set of footprints
 it was then that I carried you."
  ある夜、わたしは夢を見た。
 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
 一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
 そこには一つのあしあとしかなかった。
 わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
 このことがいつもわたしの心を乱していたので、
 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」

 主は、ささやかれた。
 「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」


 選びの試練
『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(ロマ書 5:3-4)

『しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け・・』(エペソ 6:14)

◇“まばたきの詩人”と称された、故・水野源三さん(1937~84年)の詩の中に『有難う』という詩があります。

        物が言えない私は 有難うのかわりに ほほえむ
        朝から何回も ほほえむ 苦しいときも 悲しいときも
        心から ほほえむ

◇ひとが、苦しいときに苦しいと言い、悲しいときにその悲しみを素直に表現するのは、決して間違ってはいないと思います。それに対して源三さんはこの短い詩の中で、苦しいときにも悲しいときにも(否,むしろ苦しく、悲しいからこそ)心からの微笑みを向けることの大切さを表現しています。厳しい試練や苦難の歩みに裏打ちされた源三さんの深きまなざしをここにみるかのようです。

◇ギスギスした重苦しい雰囲気が深く蔓延しているかのような現代社会のなかで、人びとの多くは強いストレスや苛立ちを覚え、ときとしてそうした鬱積(うっせき)の刃(やいば)を他者への攻撃や社会への不平不満を表現することによって発散させようとします。またこれとは逆に、激しい自己否定の結果として、リストカット行為に陥ったり自らの命を絶とうとする人たちもいます。

◇苦しみや悲しみは辛く厳しいものですが、いっぽうで愛なる神さまからの「選びの試練」による修練を経て、自分自身の内面が磨かれる良きチャンスともなり得るような気がします。さらにはそうした修練を通して、同じような苦しみや悲しみにあえいでいる人たちを、より深いレベルで共感的に理解できるようになれる気もするのです。ですから、絶えず襲いかかる苦しみや悲しみに押しつぶされずに真理の御言葉の帯を携えつつ、試練をしっかりと受けとめたいと思うのです。できれば源三さんのような「微笑みのまなざし」をもって・・。とても難しいことだけど・・。

  一羽の雀
心くじけて 思い悩み などて寂しく 空を仰ぐ
主イエスこそ 我が真(まこと)の友
一羽の雀に 目を注ぎ給う 主は我さえも 支え給うなり
声高らかに 我は歌わん 一羽の雀さえ 主は守り給う(新聖歌 285番)
◇どうにもならないほどに寂しさをおぼえるとき。深い悲しみに沈んでいるとき。漆黒の闇のように自分のこころが苦しみもだえているとき・・。そんな時ほど主イエス様が自分の近くにおられることを実感できる瞬間はありません。なぜなら「一羽の雀」にさえ目を注いで下さるお方なのだから・・。私の罪や弱さを無条件で担って,カルバリ山の十字架に架かって下さったお方なのだから・・。
『人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。』(マタイ 10:26~31)  

夕焼け
 ◇夕陽が薄暮の空に映えて,やがて夕焼けとなります。そんなとき,決まって吉野弘の『夕焼け』の詩を思い出します。
      いつものことだが 電車は満員だった。
     そして いつものことだが 若者と娘が腰をおろし としよりが立っていた。

     うつむいていた娘が立って としよりに席をゆずった。
     そそくさととしよりが座った。礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。娘は座った。

     別のとしよりが娘の前に 横あいから押されてきた。
     娘はうつむいた。しかし 又立って 席を そのとしよりにゆずった。
     としよりはつぎの駅で礼を言って降りた。娘は座った。

     二度あることは と言う通り 別のとしよりが娘の前に 押し出された。
     可哀想に 娘はうつむいて そして今度は席を立たなかった。
     次の駅も 次の駅も 下唇をキュッと噛んで 身体をこわばらせて。

     僕は電車を降りた。固くなってうつむいて 娘はどこまで行ったろう。

     やさしい心の持主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる。
     何故って やさしい心の持主は 他人のつらさを自分のつらさのように 感じるから。
     やさしい心に責められながら 娘はどこまでゆけるだろう。
     下唇を噛んで つらい気持で 美しい夕焼けも見ないで。
 ◇「やさしい心の持主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる。/何故って/やさしい心の持主は 他人のつらさを自分のつらさのように 感じるから。・・」この箇所を読むと,決まって涙ぐんでしまいそうになります。

◇こころ弱き私は,こころ傷ついている人を励まし,慰めることはできません。たぶんできることは,寄り添って悲しみを共有してあげることだけ・・。ただ,それだけ・・。主イエス様が私たちにそうされたように・・。



  Accept
◇マザー・テレサは,しばしば“Accept”という言葉を語っています。自分にとって辛く厳しい状況ではあっても,それらを(あるがままに)受け容れる,という意味で使っているのです。彼女が辿ってきた生涯に想いを馳せるとき,マザー・テレサが発する,この短い単語に深い意味(摂理)を感じます。

◇以下にお示しするように,聖書には「忍耐」という言葉が数多く示されています。つまりは,それだけ大切なまなざしだと思うのです。私たちが辛く厳しい困難に直面したときは,「堪え忍ぶ」という言葉の意味が重くのしかかってきます。その結果,「もうとても耐えきれない」とさえも追い込まれそうになります。しかし,そんなときには以下の聖書の御言葉に拠り頼みつつ,試練や困難を前向き肯定的に受けとめながら,御言葉の確かさを信じ抜く歩みをしたいと思うのです。
『あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。』(ルカ 21:19 )

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(ローマ 5:3・4)

『昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。』(ローマ 15:4)

『どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。』(ローマ 15:5)

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』(エペソ 6:18 )

『どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。』(2テサロニケ 3:5 )

『しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。』(1テモテ 6:11)

『それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。』(ヘブル 6:12)

『こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。』(ヘブル 6:15 )

『あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。 』(ヘブル 10:36)

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。』(ヘブル 12:1)

『信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。』(ヤコブ 1:3)

『その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』(ヤコブ 1:4 )

『見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。』(ヤコブ 5:11)

『主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。』(2ペテロ 3:9)

『わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。』(黙示録 2:2)

『あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。』(黙示録 2:3)

『わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。』(黙示録 2:19 )

『あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。』(黙示録 3:10)

◇『どんぐりの家』というアニメビデオがあります。聴力制約に加え、重複した機能制約を持つ人たちをめぐる教育・福祉・生活・家族問題が、その主たるテーマです。さらには、そうした人たちのための福祉施設づくりが、そのテーマです。むろん実話に基づいています。この映画は1997年に制作されたアニメです。全国各地で実に3,000回以上の自主上映会が開催され、私もそうした上映会で観たのです。その映画がビデオ化されたのです。

◇このビデオで何より感動的なのは最後に歌われる『心と心で』の主題歌です。おそらくこの歌は、今でも全国各地の多くの福祉作業所で「仲間たち(当事者本人)」によって手話付きで歌われているはずです。かつて私がボランティアとして親しく関わっていた共同作業所でも、毎日のように作業の終わりに、みんなで歌いました。懐かしい思い出です。その後、私自身が遠地へ転任をしてしまったため、関わることができなくなってしまいました。あのときの「仲間たち」は、今、どうしているのかなぁ? やっぱり今でも、この歌を元気よく歌っているのかなぁ?

 どんぐりの家パンフレット            『心と心で』

               作詞:鯉川めぐみ  作曲・編曲:千住明

   雨が上がった街の片隅 白い小さな花が生まれた
   空は見違えるほど青く それだけで なぜか微笑みがこぼれた
   あなたにも わたしにも笑顔がある 心と心で ほら 解り合える

   砂に打ち上げられた貝殻 響きあえる片方(かけら)を待ってた
   星がいくつも流れ消えた ねえみんな 何か探して生きている

   あなたにも わたしにも涙がある 心と心で 今 分かち合える
   あなたにも わたしにも あしたがある 明るく輝く そのあしたがある

   あなたにも わたしにも笑顔がある 心と心で ほら 解り合える
   ありがとう ありがとう 伝えるため 心と心で 今 手をつなごう 


 弱さは恵み
◇水野源三さんや星野富弘さんの歩みに思いを馳せます。そこには「弱さを恵み」としてとらえる視点で満ち溢れていることに気づきます。すなわち,自らが有している弱さゆえに見えてくる深き真理や芸術性を,優しくて穏やかなトーンで私たちに示してくれているからです。御言葉の確かさを再確認するのみです。

『もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。』(第2コリント 11:30)

『このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。』(第2コリント 12:5)

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(第2コリント 12:9)

『ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(第2コリント 12:10)

『確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。』(第2コリント 13:4)

 平和
『平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。』(マタイ 5:9)

『どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。』(ローマ 15:13)

『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』(エペソ 2:14)

『平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。』(エペソ 4:3)

『キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。』(コロサイ 3:15)

『どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。』(2テサロニケ 3:16)

『すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。』(ヘブル 12:14)



  十字架より叫び聞こゆ
◇ある教会で行われている夕方の集会に集ったところ,心に染み入るような讃美歌に出合いました。それがこの曲(新聖歌120番:十字架より叫び聞こゆ)です。こころに響く素晴らしい讃美歌です。今度はいつ,エルサレムに行くことができるのだろう?
     十字架より叫び聞こゆ 彼らを許したまえと
     神の御子 苦しみ受け 世の罪を負いたもう
     ゲッセマネの暗き夜の その祈り君 知るや
     ゴルゴダの丘の上の 苦しみはたがためぞ

     十字架より叫び聞こゆ 全ての事 終わりぬと
     神の御子 血を流して 世の罪を清めたもう
     木の上にくぎ打たれし その痛み君 知るや
     ゴルゴダの丘の上の 苦しみはたがためぞ

 -陶器師-
◇以下の歌詞は,オンギジャンイ宣教団による「第5集 神様の秘密」に収録されている讃美です。オンギジャンイとは,韓国語で「陶器師」の意味です。愛なる神さまは私たちの陶器師だからです。

◇「まず 知るべきことはイエスの愛 神様の御言葉を忘れないこと」「まず するべきことは愛し合い われら良き知らせを伝えること」 すばらしい歌詞だと思うのです。

               まず するべきことは

     主イエス愛する者 手を取り合って 愛をわかちあおう 御言葉とおり
     主イエス慕う者 声高らかに 喜びたたえよ 神の愛

     主イエスがこの世に こられた意味を 世の人々に知らせよう

     まず 知るべきことはイエスの愛 神様の御言葉を忘れないこと
     まず するべきことは愛し合い われら良き知らせを伝えること
     われら良き知らせを伝えること

                イエス様の愛

     イエスさまの愛 とても美しい
     わがこころを満たす イエスさまのその愛
     主を知るまで 気づかなかった その大きな愛を
     私は知り 感じられた 主を知ったときから
     イエスさまの愛 とても美しい わがこころを満たす
     イエスさまの愛

     主を知るまで 気づかなかった その大きな愛を
     私は知り 感じられた 主を知ったときから

     イエスさまの愛 とても美しい わがこころを満たす
     イエスさまの愛

 主の愛が今
◇このワーシップソングを歌うと,いつも決まって涙が滲み出てしまいます。「傷ついた主の 愛の手が動き あなたの上にとどまる」とは,まさに「私の上にとどまる」ことを強く感じるからです。そして,愛なる神さまへの感謝の想いが湧き上がってくるのです。

◇激しくむち打たれ,荊(いばら)の冠をかぶせられ,十字架の刑によって激しく傷ついた主イエス様の「愛の御手」に触れたとき,ひとは皆,そのままの自分が愛されていることを知り,自らが有している深き傷や痛みが癒されるのではないでしょうか。

         主の愛が今 あなたをつつむ 打たれた傷も癒される
         主の愛が今 あなたをつつむ 嘆き悲しみ逃げ去る

         傷ついた主の 愛の手が動き あなたの上にとどまる
         全能の主の 愛の手がつつみ あなたの心を癒される

 -Still-
◇私が好きな讃美に,「静まって知れ -Still-」という曲があります。

             みつばさの陰にかくし 力ある御腕の中に
             逆巻く大海を越え 主とともに羽ばたく
             我が父よ 王なる神 静まり あなたを知る

             キリストの中に憩い 信頼と主の力知る
             いかづち鳴りわたる中 主とともに羽ばたく
             我が父よ 王なる神 静まり あなたを知る

◇慌ただしい喧噪の日々の中ですが,それゆえにこそ,私たちは静まること,が意味するまなざしに,深く心を馳せたいと思うのです。

◇大自然の中をドライブしながら、ヘイリー(Haley)のピュア(Pure)を聴きました。特に、その中でも『ヴィヴァルディ:四季~冬からの編曲』である『リヴァー・オブ・ドリームス(River of Dreams)』は、悲しみに沈んだ自分の心を整えてくれました。音楽って偉大ですね!
             どこまでも白い ひとりの雪の道
             遠い国の母ぁさん今日も お話を聞いてください
             あれからもぉ三年過ぎ
             この道にまた白い雪 サラサラ鳴ります

             北国の冬は 厳しく辛いけど
             母ぁさんと歩いた道は 温かな想い出だけ
             レンゲの春 トンボの秋
             忘れません声を合わせ 歌ったあの歌

             あしたもこの道 歩きますひとりで
             母ぁさんが歩いたように 風の中を負けないで
             いつか春の風が吹けば
             歌いましょうあの日の歌 ひとりこの道で



香川県の仁尾からの眺め
◇私が以前、生活していた場所の写真です。静かな波間がキラキラと美しく光り輝いていました。もしも許されるならば、朝な夕なに、この風景を眺め続けていたい、と心底から思ってしまうほどの静寂なる美しさでした。この美しい画像をみていたら、ふと宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一節が思い出されてきました。私自身も、こうした「ひとのさいわい」を願い求める優しいまなざしを持ちたい、と強く思ったものでした。
 そこらから小さな嘆息やいのりの声が聞こえジョバンニもカムパネルラもいままで忘れていたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフィックというのではなかったろうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、はげしい寒さとたたかって、たれかが一生けんめいはたらいている。ぼくはそのひとにほんとうにきのどくでそしてすまないような気がする。ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう)
 ジョバンニは首をたれて、すっかりふさぎ込んでしまいました。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」青年が祈るようにそう答えました。
ジョバンニは、ああ、と深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
「うん。僕だってそうだ」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう」ジョバンニが言いました。
「僕わからない」カムパネルラがぼんやり言いました。
「僕たちしっかりやろうねえ」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧くように、ふうと息をしながら言いました。

高知県の四万十川にて
◇霜が降りている、やや寒い朝に川辺(かわべ)に出てみました。何という「たおやか」な流れでしょうか! この美しい川辺の姿をみるためにフェリーに乗り、300キロの道のりを走って来たのです。人と人とが憎み合い、争うような世情を忘れさせてくれる、静かなる川の流れです。この流れのように、たおやかに生きられるといいな!

        主の祈り

  天におられるわたしたちの父よ、
  み名が聖とされますように。
  み国が来ますように。
  みこころが天に行われるとおり
  地にも行われますように。
  わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。  
  私たちの罪をおゆるしください。
  私たちも人をゆるします。
  私たちを誘惑におちいらせず、
  悪からお救いください。アーメン。
     THE LORD'S PRAYER 

  Our Father in heaven,
  holy be your Name,
  your Kingdom come,
  your Will be done,
  on earth as in heaven.
  Give us today our daily bread.
  Forgive us our sins as we forgive those  
  who sin against us.
  Do not bring us to the test
  but deliver us from evil. Amen.

☆北欧のノルウェーの首都であるオスロに、「ノーベル研究所」という、さほど大きくもない建物があります。ノーベル賞の中で、『ノーベル平和賞』だけはスウェーデンのストックホルムではなく、ここオスロで授賞式が行なわれるのですが、そのノーベル平和賞の受賞者を選考する質素な部屋には、歴代の受賞者たちの白黒の写真が飾られています。かつて、その研究所を訪れた私は、その中にインドのカルカッタで《無私の愛のまなざし》をもって、貧しき人々や病める人々に奉仕し続けたマザー・テレサの写真を見いだすことができました。

☆生前、マザー・テレサが好んで唱えた祈りがあります。それが「アッシジの聖人」と称された、聖フランシスコの作による『平和を求める祈り』です。この祈りによって、私たちは互いに憎み・争い合うために存在しているのではなく、希望を、光を、そして喜びを分かち合うために生かされていることを知らされるのです。

          『平和を求める祈り』

   わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

   憎しみのあるところに愛を、
   いさかいのあるところにゆるしを、
   分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、
   誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
    闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

   慰められるよりは慰めることを、
   理解されるよりは理解することを、
   愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

   わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
   自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。
      PRAYER FOR PEACE

  Lord,
  make me an instrument of your Peace.
  Where there is hatred, let me sow love
  Where there is injury, pardon
  Where there is separation, connection
  Where there is doubt, faith
  Where there is falsehood, truth
  Where there is despair, hope
  Where there is sadness, joy
  Where there is darkness, light

  O Divine Master,
  grant that I may not so much seek
  To be consoled as to console
  To be understood as to understand.
  To be loved as to love

  For it is in giving that we receive.
  It is in pardoning that we are pardoned.
  It is in dying that
  we are born to eternal life.
  Amen. 

◇これは,カトリックのホイヴェルスン神父様が故郷のドイツに帰郷した折りに,ひとりの友人からもらった詩です。健全なる自己受容のまなざしを、ここにみるかのような珠玉の祈りです。(ヘルマン・ホイヴェルスン『人生の秋に』春秋社 2008年 75~77頁)
 『最上のわざ』
       この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり 働きたいけれども休み しゃべりたいけれども黙り
       失望しそうなときに希望し 従順に 平静におのれの十字架をになう
       若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても ねたまず
       人のために働くよりも 謙虚に人の世話になり
       弱って もはや人のために役だたずとも 親切で柔和であること
       老いの重荷は神の賜物 古びた心に これで最後のみがきをかける
       まことのふるさとへ行くために
       おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしてゆくのは 真(まこと)にえらい仕事
       こうして何もできなくなれば それを謙遜に承諾するのだ
       神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる それは祈りだ
       手は何もできない けれども最後まで合掌できる
       愛するすべての人のうえに 神の恵みを求めるために
       すべてをなし終えたら 臨終の床に神の声をきくだろう
       「来よ わが友よ われなんじを見捨てじ」と



       『有難う』

   物が言えない私は
   有難うのかわりにほほえむ
   朝から何回もほほえむ
   苦しいときも 悲しいときも
   心から ほほえむ
          (水野源三)
        『生きる』

    神さまの 大きな御手の中で
    かたつむりは かたつむりらしく歩み
    螢草は 螢草らしく咲き
    雨蛙は 雨蛙らしく鳴き
    神さまの 大きな御手の中で
    私は 私らしく 生きる
                   (水野源三)
   天の父さま
   どんな不幸を吸っても
   はく息は感謝でありますように
   すべては恵みの呼吸ですから
                (河野進)
    いつもにっこりと笑うこと
    他人(ひと)の身になって思うこと
    自分のみにくさを恥じないこと
    来る日も来る日も守ってごらん
    きっと美しい人になれる
            (真山美保『泥かぶら』)

  祈り...
「真の祈りとは、目を開き、耳を澄ませ、気を感じる態度である。」
「祈りとは、さざ波が消えた湖面のようなもので、あなたと神が近づき合い、互いに一つの点で出会う瞬間のようなものだ。」
「それは、輝く石を浮かび上がらせるようなものであり、宝を探し当てるのに似ている。」
「目を開き、耳を澄ませ、気を感じなければ不可能だ。真の祈りそのものが、宝であることに気づきなさい。」
「真の祈りとは、誰かの中にあり、あなたの中にもあり、あらゆる存在の中にもあり、究極的には、神の中にあるものである。」
「真の祈りとは、表現されたがっている、発見されるのを待っている神の声、神の現れである。」
「祈りの仕事とは、真の祈りが浮かび上がる場を整えることである。あなたの魂を、真の祈りが浮かび上がる場にしなさい。」
「それは、相手の魂と直接話すことだ。相手を物理的・肉体的な人として見るのではなく、どんなに遠くに離れていても、魂と魂で互いに話し合いなさい。」
「相手が目の前に居るときと同様、相手を愛し、尊敬し、正直で誠実な態度を保ち、聴きなさい。」
「祈りの時間は、一人一人のために、あなたの魂を開きなさい。」

◇この文章は、「うつ病」の状態におられる、あるクリスチャンの女性がイメージされた祈りのフレーズです。深い洞察に満ちた優れた文章であることを知らされます。弱さや痛みを身近に感じることは感謝なのかもしれません。なぜなら、そうしたときこそが、愛なる神様が弱き自分に真理を獲得させてくださる良き機会だろうと思われるからです。

◇これは、城達也氏の卓越したナレーションによる『ジェットストリーム』の、最初と最後に流れるフレーズです。FM東京から毎晩、午前0時に放送されていた日本航空(JAL)提供の『ジェットストリーム』を毎晩のように聴きながら北欧&英国留学の夢を膨らませたものでした。残念ながら、その夢は果たせませんでしたが、その後、実際にこれらの地を訪問することができました。
『ジェットストリーム』
遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休めるとき、
はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。
満天の星をいただくはてしない光の海を ゆたかに流れゆく風に心を開けば、
きらめく星座の物語も聞こえてくる 夜の静寂の、何と饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかな地平線も瞼に浮かんでまいります。・・・・・

夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、遠ざかるにつれ
次第に星のまたたきと区別がつかなくなります。
お送り(贈り)しております、この音楽が美しく、あなたの夢に、溶け込んでいきますように。

 imagine(イマジン)
imagine there's no heaven it's easy if you try
no hell below us above up only sky
imagine all the people living for today...

imagine there's no countries it isn't hard to do
nothing to kill or die for no religion too
imagine life in peace...

imagine no possesions I wonder if you can
no need for greed or hunger a brotherhood of man
imagine all the people sharing all the world...

you may say I'm a dreamer but I'm not the only one
I hope someday you'll join us and the world will be as one
  天国なんかないと思ってごらん その気になればたやすいこと
  ぼくたちの足元に地獄はなく 頭上にあるのは空だけ
  みんなが今日のために生きていると思ってごらん

  国なんかないと思ってごらん むずかしいことじゃない
  殺し合いのもともなくなり 宗教もなくなり
  みんなが平和な人生を送っていると思ってごらん

  財産なんかないと思ってごらん 君にできるかな
  欲張りや飢えの必要もなく人間はみな兄弟
  みんなが全世界を分かち合っていると思ってごらん

  人はぼくを空想家だと言うかも知れない けれどもそれはぼくひとりじゃない
  いつの日か君たちもぼくたちの仲間になって
  世界がひとつになったらいいと思う

       THE SERENITY PRAYER
  O God, give us
   serenity to accept what cannot be changed,
   courage to change what should be changed,
   and wisdom to distinguish the one from the other.
   (Reinhold Niebuhr)
           ニーバーの祈り
   神よ、
    変えることのできるものについて、
   それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
   変えることのできないものについては、
   それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
   そして、
   変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
   識別する知恵を与えたまえ。
    ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)