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※このエッセイは、私が1992年8月〜1993年7月まで、在外研究でニュージーランド(ハミルトン市)に滞在していた際に、私の故郷の新聞紙に連載させていただいたものです。それに加えて、帰国後、直ちに2ヶ月間、欧州・中東・英国に滞在した時に寄稿した文章も加えてみました。お読みいただけると、お分かりのように、連載の途中から、ニュージーランド(ケンブリッジ)との姉妹都市提携への夢を抱き始め、文章には、そうした自分自身の篤き想いがにじみ出ています。 |
「羊の国から」(1) |
「羊の国から」(2) |
「羊の国から」(3) ラグビーの「オールブラックス」に代表されるように、ニュージーランドはとにかくアウトドア・スポーツの盛んな国で、街のあちこちでジョギングをする姿が見られます。クリケットやゴルフのような穏やかなスポーツならイザ知らず、なかには常識では考えられないような冒険もあります。渓流をジェットボートで猛スピードで走り抜ける程度なら理解できます。私もクィーンズタウンで乗りましたが、爽快そのものでした。そのなかのひとつに最近、日本でも紹介され始めた実に無謀な冒険に「バンジー・ジャンプ」というのがあります。川の谷間にかけられた高さ40〜80メートルの橋の上から両足をゴムロープで縛って飛び降りるのです。しかも、一つの場所で一日に100人もの人たちがそれに挑戦をしています。そしてこのことのために、わざわざ日本からやってくる若者たちが数多くいるのです。そうした光景を見ながら、実は私も挑戦をしてみたい衝動に駆られたものでした。仕事で来ていさえしなければ、絶対に挑戦をしてみたかったです。 ところで、この国の天候をさして「一日のなかで四季がある」と聞かされていましたが、まさにその通りでした。すなわち朝(春)、昼(夏)、午後(秋)、夜(冬)ということです。それに雨かと思うと、とたんに晴れてきたり、といったように、実に変わりやすい天気です。この国には英国からの移住者たちが多くいるのですが、この国の気候も英国と同じような感じなのです。最近では紫外線の影響による皮膚ガンのことが取り上げられていますが、日中はさもありなん、と思わせるほどの強い日差しです。 さて私が住んでいる家は、大学の学生寮の管理人サンが住んでいた家で、とても広くて快適です。まるで私が住むために改修をしてくれたのかと思えるほどに美しく内装が整えられており、とても感動しました。日当たりの良いベランダからは、芝生の緑が美しい、広大な大学のキャンパス(構内)がよく見えます。私は毎朝、そのキャンパスを横切って研究室へと向かいます。ノンビリ歩くと10分はかかります。途中の美しい池には水鳥がゆったりと泳いでいます。こうして生活をしていると、何だか職場をただ単に日本からニュージーランドへ移動してきただけ、といった錯覚に陥ります。この文章も研究室で綴っています。細々とした雑務の日々から開放されて、実に快適な生活です。 |
「羊の国から」(4) |
「羊の国から」(5) 前回、ニュージーランドにおける多民族国家の姿について述べましたが、いっぽう単一民族国家の意識が強い日本では、そのことに起因するさまざまな差別が日常的に存在しています。例えば指紋押捺問題を中心とした民族差別、私の領域であるところの、体や知能に機能的制限を強く有する人たちに対する差別問題、セクシュアル・ハラスメントに代表される女性差別問題、それに部落差別問題などです。特に、最後の部落差別問題は、道産子の人たちにはその差別の実態を実感としてイメージするのが困難かと思われます。 一例を述べますと、例えば香川県で私が住んでいる場所の近くに被差別部落と称される集落があります。私は毎朝、そこを通って通勤をしています。私が四国学院大学へ赴任した当時(1984年)のことでした。何人もの人から「あの近くの道路を通るのは避けたほうが良いですョ・・」などと忠告されたものでした。私は香川の道路は細いので、きっとそのせいだとばかり思っていました(じっさい本当に狭いのです)。しかし、やがてそれが被差別部落の周辺の道路を指すことが分かってきました。そこで生活している人たちは、たまたま自分がその地域で生まれ育ったといっただけで、学習・就職・結婚等で、さまざまな激しい差別を受け続けるのです。それはそれはヒドイものです。 こうした差別問題は、実は多民族国家でも同様に存在しています。それは例えば、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)問題や、ロサンゼルスで起こった黒人暴動事件でもその問題の深さが明らかになったことと思われます。これはあくまでも私個人の考えなのですが、アメリカ合衆国は今だにベトナムショック(大国がアジアの小国に敗けた、といった衝撃)から完全には立直っていないのではないかと思えるのです。そのショックが20年あまりも続き、先の湾岸戦争で他の諸国を巻き込みながら半ば強引に武力行使に突入し、地上戦開始後わずか百時間あまりで完全勝利を宣言して、ベトナムショックを払拭しようと試みたのではないかと考えています。しかしこの程度で解決できるほどに「病巣」は軽くはなかったのです。それが先の黒人暴動事件の一因であったと思えるのです。すなわち、それほどまでに多民族国家が抱える問題は大きい、ということです。しかし、ニュージーランドではかなりうまくやっているらしい、というのが私の感触なのです。 |
「羊の国から」(6) |
「羊の国から」(7) ユネスコ(国連教育科学文化機関)の関係で、インドネシアの特別教育を専門とする教育関係者の人たちと一緒に各地の「メインストリーミング」(一人ひとりの子どもが、その子なりに尊重される教育理念のこと)を目的とした特別教育の実際を見学していたときのことでした。ある日のことでした。「コンダクティヴ・エデュケーション」を行なっている「ユニット」(これは「学級」といった意味ではなく、指導が為されている場所を指す言葉です)を見学したことがありました。まさかこの国でこうした教育が行なわれているとは思いもしませんでした。私自身あまり詳しくは知らないのですが、これはハンガリーで為されている特別な教育方法の名称なのです。したがって、指導者はハンガリーから来ている人でした。 あれこれ話し合いをしているときに別のスタックがやって来ました。すると途端にハンガリー語で話し出しました。そこで私はフト考えました。「ああ、ここにはニュージーランド人とインドネシア人と、ハンガリー人、それに自分がいるんだな」と・・ それが英語を媒介としながら脳性マヒ児の子どもの指導法について話し合っているのです。この国にメインストリーミングが根づく筈です。それに加えて、この国にはもう一つの公用語としてマオリ語があるのです。掲示物にはいつも英語とマオリ語の表示が為されています。大学のキャンパスでも、南太平洋諸国から来ている留学生たちの数の多さに驚かされます。肌の色から言語まで、さまざまな文化がごく日常的に交じり合っている姿は実に壮観です。単純に感動を覚えてしまいます。このように多民族国家の姿を当然のように見せられてしまうと、日本の文化の弱点、もしくは脆(モロ)さを強く感じます。 おそらく日本人のなかには「日本は単一民族国家だ」などとひどい誤解をしている人たちが数多くいるはずです。すなわち、言語も一つ、肌の色も一つ、と・・ それゆえ日本は価値の統一化(固定化)がなされやすい土壌を有しているのです。いつも「人のふり見て、わがふり直せ」になりがちなのです。顔立ちや肌の色が異なるといっただけで、ジロジロと見るような風潮があります。同じように、体の機能が不自由であるとか、知恵が遅れているとかいっただけでジロジロなのです。悲しいことと思います。 |
「羊の国から」(8) 欧米でもそうですが、この国でも最近では「禁煙」が徹底しています。自然保護に力を注いでいる国ですから、当然といえば当然です。街を歩いていても喫煙者は滅多に見かけませんし、タバコの自動販売機も見かけません。私のいるワイカト大学でも禁煙が徹底しています。教職員でタバコを吸う人を見かけたことはありませんし、建物のなかでタバコの煙の匂いを感じることはありません。これは街の建物にも共通していることです。唯一、学生ホールでタバコの匂いが多少する程度です。飛行機でも、国内線は当然のように全席が禁煙です。レストランでも先ず最初に「タバコを吸いますか?」と聞かれます。そうです、日本とは逆に喫煙席の数の方が少ないからです。 言うまでもないことですが、喫煙は個人の嗜好に属することです。健康への影響を説いたとて、最終的には個人の責任で処理されるべきことがらに属します。問題は他者に対しての間接的な健康破壊への影響、および自然環境破壊への影響をどう判断するか、ということです。教育や福祉の分野では「ヒューマン・ライト」、すなわち「権利」という言葉がよく使われます。この国でも、しばしばこの言葉が出てきます。これは何も少数者やハンディキャップを有する人たちにのみ、有効な言葉ではありません。この国では、こうした発想を、広く自然環境破壊の分野まで含めようとしているのです。 自然を大切にする人は、他者の権利も大切にする。このことは真実です。この国の自然保護への熱意が、すなわち少数者や弱者に対する配慮の〈まなざし〉ともなっていることを強く感じます。もうすでに、すべての公共の建物には必ず車イス用の通用スロープ(これを「ランプ」といいます)の設置が義務づけられています。 と、この国はいい事ずくめのようですが、娯楽が少ない分、おしゃべり好きな人たちが多く、会話のスピードの早いこと! それにコワイのが車の運転です。制限速度が、市街地では50qで、市街地の外れが70q、そして郊外では何と100qです。しかもギリギリまで接近して走るのです。何よりもコワイのは、交通信号が少ないことです。私も車で道路を横切ろうとしたら、猛スピードで衝突されてしまいました。ブルブルの体験でした。レンタカーでこの国を旅行しようと計画している人は、充分にご注意ください! |
「羊の国から」(9) 先日、日本の文化を理解するために月に一度開かれているという会合に出席しました。教会のフロアーを借りての集会は、とても有意義なものでした。ここハミルトン市にはあまり日本人は多くいないと聞いていましたが、それでも何人かの日本人や、語学研修等で滞在している人たちとの交わりは、とても楽しいものでした。 最近、日本でもニュージーランドの各都市と姉妹都市の関係を持つようになってきましたが、ここハミルトン市もすでに埼玉県の浦和市と姉妹都市関係を持っています。北海道でも小樽市とか苫小牧市はニュージーランドに姉妹都市を持っています。私が滞在しているワイカト地方の風景は、この地域が酪農を主体とした地域のためか、本当に美幌近郊の風景と類似しています。それにこの国の人々は、私の知るかぎり大変な親日家が多く、ホストファミリーとして日本人を迎えたことのある家庭が多くあります。この国では日本語は第一外国語です。オーストラリアもアメリカも、それにイギリスも言葉は皆、英語です。したがって、必然的に日本語が最も身近な外国語になるのです。日本に対する憧れと期待、それに高い関心を寄せる人たちが多くいることを感じます。 北海道の人たちは他の地域に較べて、他の出身者を温かく迎える包容力があります。ちなみに、私の父親方の祖父母は仙台から、母親の祖父母は徳島からの移住者だったと聞いていました。それに先住民族であるアイヌの人たちもいます。実にニュージーランドと似ているのです。しかしこの国は、実に多民族国家です。肌の色も、髪の毛の色もさまざまです。そしてそれを当たり前のようにして受け入れています。しかし残念ながら、日本はそうした異文化を受け入れる〈まなざし〉が致命的なくらいに弱いのです。 私は単なる物見遊山的なレベルではなく、日本の致命的な弱点を補う方法として、異文化体験を積極的に推し進めるべきだと考えています。欧米志向はもうそろそろ卒業して、この国の人々との深い交流がもっと推進されるべきだと強く考えています。美幌の街にいつもこの国の人たちが滞在をしているような、そんな光景が日常的になれるといいな、と思っているのです。これからの地方都市がめざすべきは、豊かな自然と国際交流だと私は確信しています。相手国としてはこの国がベストです。強くそう思っています。 |
「羊の国から」(10) |
「羊の国から」(11) |
「羊の国から」(12) |
「羊の国から」(13) これは完全な身びいき的な感覚から述べるのですが、内外を問わず、どこへ行っても、またどこへ住んでも美幌ほどステキなところはない、というのが変わりなき私の想いです。そう考える理由はさまざまですが、20数年来、年に一度は帰郷してきた自分にとっては、単なる望郷の念とは異なります。大学で学ぶために美幌を離れて以来、いつもこの町への帰郷のチャンスを願ってきました。道東地方は、そこに住む人たちが思う以上に内地の人にとっては憧れの地域です。「美幌峠の近くを車で走っていたらシカ(鹿)が見えたよ」といった程度のことでさえ、ロマンを感じてしまうらしいのです。 この国(ニュージーランド)に日本からの観光客が増え続けている理由は、何よりも豊かな自然環境に触れるためであることは間違いありません。しかもほとんどが観光地化されてはいないのです。都会のアスファルトジャングルは人々の心をひどく荒(すさ)ませます。しかし豊かな自然は人々の心をほぐし、和(なご゙)ませるのです。例の『北の国から』の富良野だって、たしかに脚本やスタッフの卓越さはあるにしても、何よりも自然の美しさが多くの人々にロマンを感じさせるのではないでしょうか。しかし昨年秋に帰郷した際に、富良野へも立ち寄ってみましたが、美幌の美しさの方が勝っていると思いました。 美幌は都会の亜流(真似)であっては決してなりません。高い文化の提供で特徴づけるべきです。ちょうど女満別がハイレベルの音楽で町全体を特徴づけようとしているように。また、当然ですが福祉や教育や医療も文化です。そして、その地域がこうした分野にどれほど力を注いでいるかが、文化水準をはかるうえでの重要な要素でもあるのです。なぜなら、これらの側面(福祉・教育・医療)は生産性、あるいは見返りが期待されない部分だからです。私は福祉や教育分野の研究者ですから行政には詳しくないのですが、町行政の中心に立つ人たちが、こうした行政実績につながらないような側面での仕事をどれだけ本気で行なえるかが問われるべきだと思うのです。根回しや行政手腕能力の有無ではなく、文化の理解こそが真に問われるべきなのです。美幌の場合、自然環境面での文化保持はおそらく何とかなると思います。福祉や教育や医療面も、どこかにポイントを絞ればかなりの水準を保てるはずです。そして私はそれに加えて国際交流をあげたいのです。 |
「羊の国から」(14) 現在、英米語圏の国に住んでいて一番困ることは、当然といえばそうですが、言葉による意志の疎通の困難さです。世界の共通言語は今や英米語であることは、残念ながら認めざるを得ません。しかしだからと言って、一国の総理大臣が米国からの訪問者を迎えて英米語で話すなどといったことは、いかにも屈辱的な光景です。 日本の研究者に求められる重要な資質のひとつに、いかに他国の言語をスムーズに運用できるか、があります。そうなると研究者はみな翻訳者になり、翻訳者はみな研究者になれるというおかしな理屈になってきてしまいます。しかしより重要なことは、他国の言語を持つ人たちと、いかにして真の意味での意志疎通がはかれるか、ということです。 私はこの国へ来るまでは、多くの日本人が日常的にやはりそう感じているように、英米語コンプレックス(とりわけ聴く・話すといった部分での)というものがありました。そして生活や仕事をするなかで、事実関係は確かにそうであるとしても、本当の意味での相手との意志疎通、すなわちコミュニケーションとは、単なる機械的な言語運用能力の問題ではないことに気づいたのです。 さて、この国の人々の日本語学習熱は相当なものです。かなりの高校生たちが学校で日本語を学習しています。農産物の輸出と観光客の受け入れとの主要な相手国が日本なのですから、日本に対する関心の高さは当然かもしれません。日本では多少なりとも英米語を使えるということが自慢になるようなおかしな風潮がありますが、この国では「自分の日本語を聞いてくれ」とばかりに話し掛けられることがよくあるのです。そして「どうしてあんな難しい言葉をマスターできるのか?」と聞いてくるのです。ひらがな・カタカナ・漢字、それに数多くの外来語が文章中に自在に交(混)じり、縦書き・横書きがあり、漢字には音読み・訓読みがあり、しかも数千は覚えなくてはならないなどと言うと、もう感嘆というか畏敬に近いまなざしで見られてしまうのです。 そうした体験を積み重ねるにつれ、次第に自分が日々、相手との言語コミュニケーションで苦労しているのは努力と能力とが足りないだけだ、などと自らを責め、嘆いていたことによる無用なストレスが私のなかからス〜ッと消えてゆきました。 |
「羊の国から」(15) |
「羊の国から」(16) |
「羊の国から」(17) 以前にも書きましたが、この文章を読まれている人の中には、いつかこの国を訪れてみたいと願っている人もおられることと思います。そして、そのときにはレンタカーを借りて、この国を自在に動き回ってみたいと考えている人もキットいらっしゃることと思われます。そこで今回は、この国の運転事情について述べてみたいと思います。 さて、ニュージーランドは英国やオーストラリアとともに、世界でも数少ない左側通行で運転ができる国(すなわち日本と同じ)です。しかも日本の70%の国土面積を有しながら、人口は北海道の半分強(350万人)ですから、市街地以外では車が渋滞することもなく、素晴らしい風景や羊たちを眺めながら、実に快適なドライブを楽しむことができます。ちなみに、この国では郊外での制限速度は100キロです。でも実際は、それが日本の60キロの感覚ですから、それ以上のスピード走る車が大半です。 車はその多くが日本車です。しかも新車は日本で購入する二倍程度はします。驚くかもしれませんが、これはこの国の30才前後の普通のサラリーマンの年収分(税込)にあたります。これとは逆に、新車を4〜5台買う値段で、庭つきの広い一軒家を購入することができます。ですから、多くの人は、ちょうど日本で新車を購入するのと同じくらいの値段で中古車を購入するのが普通です。街のいたるところに中古車販売の店が並んでいます。中古車の場合、オートマチック車やパワステ車は少なく、またエアコン装備はほとんどされていません。それでも国土が広いためか、たいていの人は車を持っています。 給油所は「ガスステーション」と呼ばれ、ガソリンは「ペトロール」と呼ばれています。最初、この国では給油は自分でするということを聞いていましたが、こちらが頼めば日本と同じように入れてくれます。そして、何といっても助かるのがガソリンの値段が日本の半分くらいだということです。それに税金がとっても安いのです。何だかとてもトクをしたような気持ちになります。給油所には車の故障の際の修理用品がたくさん並んでいます。バッテリーがあがってしまった時に、他の車のバッテリーとつなぐためのコードはいいとしても、信じられないような部品まで並んでいます。中古車が高速でビュンビュン走り回っている国ですから、それだけ部品のトラブルが多いのでしょう。 |
「羊の国から」(18) 結論から先に述べますが、この国ではレンタカーを借りての運転はできるだけ避けた方が賢明だと私は思います。そのことは日本人ガイドさんも言っていたことです。その理由は、前回述べたように、車の運転速度がケタ違いに速いということです。高速道路ならいざしらず、一般道路でお互いが100キロ以上の速度ですれ違うのですから、それはものすごい緊張です。事故が起これば、それは直ちに死を意味します。まるでカーレースのようにビュンビュンと走るのがこの国の運転事情であるということは間違いありません。この国では車の保険のなかに、道路の石によるフロントガラスの損傷保障がついているといった事情も、さもありなんと思います。だいたいが日本の7割の国土面積に、北海道の半分強の人口を有する国ですから、スピード違反を取り締まろうにも手が足りません。 次に、この国では交通信号の数が非常に少ないというのも特徴的です。右折優先に関しては運転をしてゆくうちに次第に慣れてゆくのですが、日本では当然あるであろう交差点に信号機がないのです。また、ところどころの交差点に信号のない「ロータリー」があるのですが、これが何とも複雑で、いつもヒヤヒヤしながら回っています。 私はときどき「この国の人々は食事はゆっくりと食べるのに、どうして車の運転としゃべるスピードがあんなに早いのか?」と尋ねてみることがあります。それを聞いて皆、大笑いをします。そして一様に運転の恐さを語ります。多くの人は、やはり私と同じことを感じているみたいです。なにせ道路には、車にひかれた野性動物の死骸の他に、何と鳥の死骸がたくさん見られます。つまりそれだけ車のスピードが速いということです。 ハミルトン市立博物館に戦争を記念するコーナーがあり、そこに日本軍の軍刀等の展示に交じって、日本が戦前に作成したニュージーランド国内の詳しい一覧地図が展示されています。私はこれがあまりにも詳細に記されていることに感動を覚えてしまったほどでしたが、それを見ますと、この国は鉄道網が非常に発達していたことが分かります。しかし現在は縮小の一途をたどっています。またバス路線も不況のせいで年々、縮小傾向です。必然的に車での移動に依存するということになります。そんなことで、人通りの少ない広い国土をノンビリと走っているわけにはゆかないのかもしれません。 |
「羊の国から」(19) |
「羊の国から」(20) |
「羊の国から」(21) 私は英語クラスのクラスメイトたちとの挨拶のときには、できるだけその国の言葉で挨拶を交わすようにしています。幸い私はほんの少しですが、ドイツ語と韓国語が使えますのでそれで挨拶をすると、とたんに親しみの笑顔が返ってきました。今は中国語での挨拶を教えてもらっているところです。ちなみに、この国では日本語は第一外国語ですから、街を歩いていると子どもたちからよく「コンニチワ」などと声をかけられます。先日も、学校で日本語を習っている中学生の女の子が我が家に遊びに来ました。学習ノートにはビッシリと日本語が書かれてありました。 私は英米語が世界でもっともすぐれた言語であり、世界の共通言語だなどとは思っていません。たまたま英連邦やアメリカ合衆国が強大な国家であったために広く用いられたにすぎません。この先、ある国が強大な力を持ちはじめたなら、その国の言語が広く使われ出すに違いありません。ちなみに江戸時代はオランダ語の習得が主流でしたし、明治時代は、とりわけ医学や体育、それに教育学の分野ではドイツ語が主流でした。 敗戦後の日本を建て直すために来日した「アメリカ教育使節団」の報告書を読むと、そこには「漢字は止めてローマ字での表記に切り替えるべき」といった提言がみられます。結局それはボッになったのですが、興味深いことです。あるいは四島分割論が通り、北海道がソ連に占領統治されていたとしたのならば、私はロシア語を話していたに違いありません。沖縄と北方四島の問題は悲しむべき結果でしたが、ドイツや朝鮮半島と較べると、その傷は浅くて済んだといえるのかも知れません。しかも朝鮮半島の悲劇の原因は、日本の大陸侵略政策にあったのですから、申し訳のないかぎりです。そして今は、一日も早く平和的統一が実現されることを願うのみです。と同時に、北方四島がすみやかに返還されることを願うのみです。美幌へ帰るたびに、よく知床や根室や野付を訪れます。国後島がスグそこに見えます。国どうしの争いはもう避けてほしい、切実にそう思います。 日本を離れて生活していると、日本のことや他国のことをよりいっそう深く考える機会が増えます。私が英米語をうまく運用できないからとて、特別な配慮をしてくれるわけではありませんが、「自分も日本語を使えないのだから」と言ってくれるのが救いです。 |
「祖国からはじかれる」(22) この写真は、地域の教会を借りて行なわれている英語クラスのある日の参加メンバーたちと一緒に撮ったものです。左から二人目が私です。私の左がポーランドからの移住者、右がペルーから、その横が台湾から、そして、しゃがんでいるのがチェコからの移住者です。その他に、ラオス・カンボジア・香港の人たちがいます。 それぞれニュージーランドに移住してきた理由はさまざまです。ペルーのアデラは看護婦さんをしていましたが、祖国が不安定なため、彼女の兄が住んでいる、ここハミルトン市へ移住を願ったのだそうです。東欧諸国からの移住者たちも皆、同じような理由です。それはアジアからの移住者の場合も、です。いわば国家の都合で、そこから〈はじき出されてしまった人々〉が、止むなく祖国を離れるざるを得ない、といった状況は実に気の毒です。特にカンボジアの人の場合はなおさらです。別に好きで「祖国を捨てた」のではないのです。そしてわが祖国日本においても、かつてはそうした理由で北米・南米諸国へ移住して行った人たちが数多くいたであろうことを覚えるのです。思わず現在の我が身の幸運さを感謝せずにおれません。そうです。ただ「幸運」なだけなのです。 さて、アチコチで日本の若者たちを数多く見かけます。その多くは「ワーキング・ホリディ」という一年間のみ有効の、いわばアルバイト・ビザ制度でこの国に滞在している人たちです。その中には、昨年はカナダでそうした一年を過ごし、今年はこの国で、といった男性もいました。私は冗談に「それでは来年はオーストラリアですね?」と言ってあげました。おそらくこの国には現在、そうした制度を利用して数多くの日本人たち(この国での年令制限は30才まで)が滞在しているのではないかと思われます。 ニュージーランドと同様に、現在、おそらく数多くの日本の若者たちが世界中に散らばっているのだと思います。全て〈祖国ニッポン〉が経済大国で安定国家であるがゆえんです。そしてそのこととの引き替えに、強固な管理社会でもある祖国から一時的にせよ逃れたいと願う気持ちもある程度は理解できます。確かに青年期のこうした異文化体験はそれなりに意味を持つことでしょう。しかし愛する祖国を生涯にわたって離れざるを得なくなった人たちの気持ちを思うとき、やはり何かしら釈然としない気持ちが残るのです。 |
「祖国さまざま」(23) |
「温泉を求めて(その1)」(24) 私は以前、肢体不自由児の教育現場で働いていたときに罹(かか)った腰痛と腕の病気とで公務災害認定患者となってしまい、止むなく現場を離れました。そして20年経った今でも手書きではひどく腕が疲れます。ですから、針に糸を通す、などといった作業すら、私にとっては「夢のまた夢」です。そのため、文章のほとんどがワープロ書きです。 そんなこともあってか、温泉には日頃から強い関心があります。ですから美幌で温泉が出そうだ、との情報は、私にとって飛び上がるほどに嬉しいニュースでした。これでますます美幌への想いが強くなりました。ちなみに、讃岐(香川県)で私がよく行く「美霞洞(みかど)温泉」は、琴南町立福祉センターとして運営が為されています。町営バスが地域のお年寄りたちを送迎しているのです。キット美幌の場合もそうなることでしょう。 〈温泉に行きたいナア〜ッ。温泉に入りに日本へ戻りたい! 「美霞洞温泉」とは言わないけれど・・・ でも、その手前にある「ビレッジ美合」の方がもっとステキだけれど・・・ それよりも高知の「伊野温泉」の方が、いや岡山の「遥照山温泉」の方が・・・ 淡路島の「南淡温泉」の方が・・・ 北海道の「中小屋温泉」の方が・・・ しかしやっぱり屈斜路湖畔の温泉がベストだナア。何しろ展望窓の外は屈斜路湖の蒼い湖水が目の前だし、そこに白鳥が泳いでいるのがスグそばで眺められるのだから・・・ ア〜、温泉に入りたい!〉かくのごとく、日々こうした想いでいっぱいの私なのです。 この写真は、そんな私が必死の想いで見つけ出した「ワインガロ温泉」という、私が住んでいるハミルトン市から50キロほど離れた静かな山間(やまあい)にある温泉です。家族風呂の使用料は、40分で500円ほどです。ちなみに温泉のことを、こちらでは「ホットスプリングス」と称するのですが、多くの場合、それは「温水プール」を意味します。ここにも三つのプールがあり、人々はそこに泳ぐ(もちろん水着を着て)のが目的でやってきます。カギのかかる家族風呂も同様で、こちらの人は水着を着て入ります。むろん、私はそんなことはしませんが・・ また、温泉ではありませんが、この国にはこれと似たようなものに「スパプール」というバブル式の家族風呂があります。そして、モーターロッジ(車で旅行をするときに泊まるホテル)には、たいていこれが設置されています。 |
「温泉を求めて(その2)」(25) ニュージーランドには代表的な温泉が二つあります。一つは北島の「ロトルア温泉」で、もう一つは南島の「ハンマー温泉」です。私は北島に住んでいますので、まず最初にロトルア温泉にチャレンジをすることにしました。このロトルアはマオリ民族発祥の地としても知られ、この国を代表するような観光地です。しかし実際にはガクッとくるほどに静かなところです。ちなみに、ロトルアでは「マオリコンサート」はゼッタイにお薦めです。すごいパワーとスピリットとを感じます。 さて、ニュージーランドに到着してスグに、レンタカーを借りてロトルアのモーターロッジに泊まりました。日本のガイドブックに「温泉プールが二つある」と書かれてあったため、「これはグ〜!」とばかりに、わざわざ三泊分の予約をしておいたのです。たしかにありました。小さな「お湯たまり」が・・・・。しかも、もう何十年もお湯を替えたことがないような、お世辞にもキレイとは言えない「お湯たまり」が・・・・。私はそこで初めて「プール」という言葉の本当の意味を理解したのでした。サスガの私も入浴をあきらめるのにさほどの時間はかかりませんでした。そしてそのことでヒドク心が傷ついた私は「予定が急に変更になったので・・」と言って、翌日そそくさとそこを逃げ出したのでした。余談ですが、日本で売られているガイドブックに書かれてある宿泊場所の様子は、このようにあまり信用できませんので、ご注意ください。 そんなわけでしばし落ち込んでいましたが、その二ヵ月後に、今度はパンフレットでさかんに宣伝されている「ポリネシアン・プール」へと出かけることにしました。ちなみに、ロトルアは私が住んでいるハミルトンから100キロあまり離れているのですが、温泉に入りたい一心の自分としては、80万円で購入した中古車(86年型の日本車がこの程度はするのです)を飛ばしてロトルアめざして行きました。今度はありました! 30分で450円の個人用の硫黄温泉が・・・・。そこでさっそく「ウ〜ン、なかなかのお湯だ!」と感動をしながら入りました。しばし感動をした後で「ハテ、やけに涼しいナ?」と思い、フト上を見ますと、ギクッ、何と天井がないのです! 思わず「もう信じられナ〜イ!」と叫んでしまいました。そして温泉を求める私の旅はさらに続くのでした。 |
「温泉を求めて(その3)」(26) |
「不思議な国の優しい人々(その1)」(27回) 12月中旬から2月初旬にかけて、ニュージーランドの学校は長い「夏休み」に入ります。そこで私もその間の休暇を利用して、前回述べたように、南島へ一ヵ月間のドライブ旅行に出かけることにしました。走行距離、実に約6,000キロの旅でした。そこで、今回はその旅行で体験した出来事を中心に報告をしてみたいと思います。 今回の旅行を一言で表現すると、この国の人々の徹底した<優しさ>に触れた旅であったとも言えます。以下、いくつかのエピソードを紹介します。旅行に出かけるにあたり、こちらで購入した中古車の性能に不安を持っていたため、自動車整備工場の人に「ファンベルトとバッテリー、それにオイル交換をお願いします」と告げました。しかし何れも「交換する必要がない」と断られてしまいました。そこで「せめてオイルだけでも・・」と言うと「交換時期が来たら南島で換えればよい」との返事。それでも重ねてお願いをすると、しぶしぶ交換してくれました。良心的で正直と言えばその通りです。日本では喜んで交換してくれるはずです。不思議な感じがしました。 あるとき車輪のなかに小石が入り、ものすごい雑音がし始めました。そこでビックリしてガソリンスタンドで見てもらいました。「この国ではよくあることさ」と車輪を外して小石を取り除いてくれました。「費用は?」と聞くと、不思議そうな顔をして「別に・・」と答えました。そこで私は「せめてガソリンだけでも」、と給油をしました。 その後、まだギーギー音がするので、別の修理工場へ行きました。すでに閉店時間であったのにもかかわらず、わざわざ店を開けて、車輪を外し、懸命になって小石を取り除いてくれました。これも無料でした。思わず私は「クリスマスプレゼント!」と言って、持っていたお菓子を差し出しました。さらには、お正月のときにも調子が悪くなり、別の修理工場に駆け込みました。またまた車輪を外し点検をしてくれました。あれこれ調べてくれた結果「別に問題ない」と言いました。これも無料でした。どうやらこの国では、この程度の修理にはお金がかからないことが多いらしいのです。 この国の人々は、限りなく親切です。それに警戒心がまるでないかのようにフレンドリー(友好的)です。この国を訪れた人々が夢中になるはずです。実にステキな国です。 |
「不思議な国の優しい人々(その2)」(28) |
「不思議な国の優しい人々(その3)」(29) 旅行も終わりに近づいて、カイコウラというところへ来ました。そこはクレィフィッシュ(ザリガニ)で有名なところです。それと遊覧ボートで、海で泳ぐクジラを見ることができます。そこで申し込みをしようとすると、既に予約でいっぱいでした。しっかり日本の旅行会社がクライストチャーチからの日帰り観光ルートとして押さえてあったためです。止むなくキャンセル待ちをしていましたが、無理のようなので諦めてビデオテープを買って帰ろうとしたら職員がやって来て、「せっかく来てもらったのに残念だ。せめてこれを見てほしい・・」そう言いながらビデオテープと写真集を手渡してくれるのです。当然、私は「いくらですか?」と聞きました。しかし無料でした。ちなみにクレィフィッシュ(20センチほどのが千円程度)はおいしくて、とても満足しました。 ところで、前回触れたミルフォードサウンドで、北海道からのパックツアーの人たちに出会いました。ツアーの場合、クィーンズタウンから往復10時間もバスに揺られてやってきます。他の日本からの団体客もおり、船の乗り場は、さながら阿寒湖のマリモの遊覧船乗り場と同じでした。そこで日本食のお弁当を渡され(私はただ眺めるだけ)、そして百人以上は乗船している船のガイドは日本語でした。ちなみに、ここまで来るには知床の奥地へ行くような危険な道路を数時間あまり揺られて来るのです。慣れぬ道をヒヤヒヤ、ドキドキしながらようやく着くと、観光バスによる日本人の団体さんではガクッときます。 さて、タスマン海に面したフォックス氷河を歩いた後、いよいよ難所のアーサーズ峠へと向かいました。これまた凄(すさ)まじいほどの急勾配の道で、命が縮まる思いをしながら懸命に越えました。数時間かけてようやく峠を越えて麓(ふもと)のレストランまで辿り着き、軽い食事をと思うと、またまた日本の団体さんたちがそこにいました。クラィストチャーチからの日帰り観光でここまで来ていた人たちでした。疲れがドッと出ました。ここまで汽車で来て、帰りはジェットボートに乗るのだそうです。ある中年の女性がセーターを買おうとして日本語で話しています。むろん通じません。不思議そうな顔をしています。そうです。パック旅行の場合は、ほぼ全てが日本語でオーケーなのです。この女性もしばしここが他国であることを忘れてしまったのかもしれません。 |
「偉大なる田舎国家」(30) この国の様子を深く知れば知るほど、私はこの国の将来に次第に不安を覚えるようになってきました。半年あまりで、ほぼニュージーランド国内をくまなく回りましたが、どこに行っても日本人観光客の姿が目につきました。それと台湾人観光客です。クラィストチャーチやクィーンズタウンなどは、もうかなり「日本化」が進んでいます。 旅行中、やはり休暇でこの国を旅行中のシドニー(オーストラリア)やジャカルタ(インドネシア)、そしてシンガポールの現地駐在員の方々とアレコレお話をしましたが、これらの都市は、もうすでに日本化がかなり進んでいるとのことでした。日本人が多く、日本の食料品も不足がなく、日本語で用が足せ、その日のうちに日本の新聞が読めるとのことでした。事実、都市国家であるシンガポールなど「リトル東京」そのものです。 この国も三年前に最初に訪問したときには、土・日曜日は大抵の店が閉まっていたのに、今ではそうではありません。そして「ここは日本かしら?」と思えるほどに、オークランドやクラィストチャーチ、それにクィーンズタウンは日本語での表示があふれ、日本人がゾロゾロ歩いています。「ジャパンマネー」の影響がもうここまで来ています。 既にニュージーランドの主要都市の大半は日本との姉妹都市関係を結んでいます。例えば北海道に関しても、ネーピアは苫小牧と、ダニーデンは小樽と、といった具合です。何せこの国の人々の多くは、はにかみ屋で、純朴なところがありますので、ストレートに日本の影響を受けてしまいます。もっとも「キャラオーケ」(カラオケのこと)くらいの影響であれば罪はありませんが・・。 戸締まりをせずに眠り、ハダシで歩くのが少しも不思議ではないようなこの国でも、最近では「夜の一人歩きは危険」みたいなコマーシャルがテレビで流されるようになってきました。それでもこの国は、実にステキな「偉大なる田舎国家」です。ですから、日本の都市型文化の影響で素朴な文化が荒(すさ)んでゆくべきではありません。今はまだ日本へのイメージはさほど悪化していませんが、これほどまで急速にパック旅行を中心とした日本人たちが怒涛(どとう)のように押しかけ続け、「旅の恥は・・」みたいな無神経な行動を続けられると、やがてジャパンバッシング(日本叩き)が始まるかもしれません。 |
「姉妹都市への道」(31) |
「チャンスは今」(32) 私が滞在しているハミルトンは、埼玉県の浦和市と姉妹都市関係を結んでいます。先日も、美しいハミルトン公園の一角に「日本庭園」を造成する起工式のために浦和市長がやってきました(もっとも、財政援助を期待してのことですが)。関係者の人に話を聞きますと、最初は長野県のある市と姉妹都市関係を結びたかったのだそうです。しかし行政側が浦和市を選んだのだそうです。多分それは東京に近かったせいかもしれません。 そんなことがあってか、フッと思い出したことがあります。それは今から40年ほど前に、私の父(八巻正一)が美幌町役場の観光係長をしていたときのことです。何とか美幌峠を全国に売り込みたいと考えた父は、役場の関係者たちの事前承認なしに原作者の菊田一男氏に連絡をとり、例の『君の名は』の映画ロケを実現させようとしたのです。生前、父からよくその話を聞かされたものでした。当時は周囲の無理解さから、ロケの実施にはかなり苦労をしたらしいのですが、しかしその結果はご覧の通りです。今や美幌峠は日本を代表する景勝地です。美幌をふるさとに持つ私は最高の幸せ者だと思っています。 その後、「町民相談室」の初代室長として、今で言うところのソーシャルワーカーのような役割を果たした父でしたが、本当に粉骨砕身(ふんこつさいしん)で美幌のために尽くした人でした。元町の私の家には、いつもあれこれと相談を持ち込む人が来ていたものでした。これも生前、私の母親が「父(とう)サンは、口は悪かったけれど、根性は良かった・・」と口癖のように言っていたごとく、まるで相手に対して説教をしているかのような話し振りの様子を今でも鮮明に覚えています。しかしそれだけ親身になって人々に接していたということです。まあ、たぶん当時の公務員としては型破りのタイプだったのでしよう。 今、ニュージーランドは日本からの観光客が急増しています。そのためガイドブックが飛ぶように売れています。そしてもう既に、日本の多くの市町村がこの国との姉妹都市関係を結んでいます。もしも美幌がそこに加われば、美幌の良さをこの国に伝えることができ、また逆に、この国を訪れた日本からの観光客が、それ(姉妹都市関係)を通して美幌の良さを知ることにもつながるのです。まさに一石二鳥です。そして今がそのチャンスなのです。今回の写真は、苫小牧の姉妹都市であるネーピアの美しい街並です。 |
「マオリ語のこと」(33) ニュージーランドの高校では、夜間に学校の教室を利用して数多くの教養講座が開かれています。受講料は週一回、2時間で200円ほどです。クラスの種類は、料理教室や語学教室をはじめとして、運転免許の取得の仕方から、羊毛から糸をつくる技術を取得するクラスまで、実にさまざまです。この教養講座は市民にとても人気が高く、そのため、申し込み当日は長蛇の列ができるほどの盛況ぶりです。 私は現在、そのなかの『マオリ語』クラスを受講しています。私がマオリ語を勉強しようと思ったのは、この国の先住民族であるマオリ族の人々の使用言語を学ぶことによって、この国の文化をより深く理解をしたいと思ったからです。しかし、いわば日本語を充分理解できていない人が、日本語でアイヌ語を学ぼうとしているようなものですから、ヒヤ汗を通り越して、やや悲壮(?)な思いで参加しています。幸い、マオリ語の発音は日本語とよく似ているため、発音だけは胸を張っています。ちなみに、この国のことをマオリ語で「アオテアロア(『細長く白い雲のたなびく国』という意味)と言うのですが、私の方が上手に発音できます。今は簡単な挨拶しかできませんが、「参加することに意義がある」の気持ちで頑張ろうと思っています。 実は、前回の開講のときにもマオリ語のクラスを受講したかったのでしたが、このクラスはいつもすぐに定員を越えてしまい、受講できませんでした。それほど人気があるのです。以前にも述べましたが、マオリ語は英語と並んでこの国の公用語です。したがって公的な掲示物は、全てマオリ語と英語で書かれてあります。ちなみに、私の住んでいる地方は「ワイカト地方」と呼ばれていますが、これはマオリ語で「ワイ=水、カト=折る」から来ています。すなわち、内陸を流れるワイカト川によって地域が分けられているからです。この国の地名にこうしたマオリ語での表記を見いだすのは容易です。その理由は、何よりもマオリの人々がこの国の先住民族であるからです。同じように、北海道の地名の多くに(美幌もそうですが)アイヌ語での表記が見られるのは、アイヌの人々が、少なくとも北海道に於いては先住民族であるからです。北海道で生まれ育ちながら、これまでアイヌ語や文化にほとんど関心を払ってこなかった自分を今、深く恥じている次第です。 |
「多文化国家」(34) |
「真の文化とは?」(35) この国では先住民族であるマオリ民族の文化を重要視している、ということについては既に述べてきました。と言うよりは、多くの人々にとって「マオリ文化はこの国の誇り」と思っている、と表現をした方がより正確かもしれません。私が住んでいる家は大学の敷地内にあるのですが、その近くに、大学によって設置されたマオリの集会場(マラエ)があります。大学の専攻にマオリ文化を学ぶコースもあり、そこではマオリの伝統文化を学ぶ人たちの姿がひんぱんに見られます。 この国では公的な行事はマオリのセレモニー(これを「ポフリ」と言います)をもって行なわれます。ポフリの様子を文章で表現するのは難しいのですが、荘厳(そうごん)とした中にも、実にユーモアあふれたセレモニーが展開されます。新しい学部長が赴任したときに行なわれたポフリに参加した時にも、学長や学部長は、先ず最初にマオリ語で五分間ほどの挨拶をのべるのです。すなわち、この国では重要なポストに就く人々にとっては、マオリ語の習得は必須事項なのです。日本におけるアイヌ語に対する社会的位置づけとは大違いの状況があります。 「北海道旧土人保護法」という、実に非人間的な法律に代表されるごとく、日本政府の差別的な同化政策によって、アイヌ民族の人々は圧迫を受け続けてきました。その結果、双方が緊張し合いながらこうした問題をとらえる、といった悲しい状況となっています。しかしだからといって逃げてはならないのです。世の政治家たちは選挙になるたびに「福祉や教育の充実」をテーマにします。しかしその実、理論的に裏づけられたポリシー(理念)が弱いために、建物や制度を多少整備すれば事足りるとでも考えているかのようです。しかし本当は、こうした問題に真摯(しんし)な姿勢で正面から取り組むということが、真の意味での福祉や教育の充実ということなのです。しかも「一人の人権や幸せが確保できずして、全体の幸せはありえない」との<まなざし>で取り組むことです。 ご承知のように、今年は「国際先住民年」です。「美幌へ行けば、アイヌ文化がどこよりも深く学べる」と言われる美幌にしたいものです。歴史的に真に評価されるのは、目新しい建物や一時的なイベントなどではなく、こうした地味で継続した働きなのです。 |
「国際交流のまなざし」(36) 全てを詳しく把握しているわけでは無論ないのですが、現在、世界各地で起こっている争いの大半は民族紛争ではないかと思われます。そしてその根底には宗教の問題が絡んでいるケースが多いのです。その代表例が、北アイルランドのカトリックとプロテスタントの争いであり、キリスト教徒である私にとっては、実に心の重い問題です。また先の湾岸戦争で明らかになったように、イラクをめぐる争いは、言葉を換えるとユダヤ教・イスラム教・キリスト教の底流に横たわるところの世界観の違いから生じた争いとも言えます。インドではヒンズー教とイスラム教のトラブルが続いています。世界平和を希求するのが宗教本来の役割の筈であるのに、悲しい現実がそこにあります。 さて、日本はこれまで明治維新以後、富国強兵・殖産興業を合い言葉に、単一民族国家意識をもって、ブルドーザーのごとく猪突(ちょとつ)猛進の姿勢で走ってきました。先の大戦でも、他国を侵略すると、相手に強引に日本の文化を押しつけようとしました。韓国へ行くと、8月15日は「祖国解放」の祝日です。最近ようやくアジアについての正しい歴史を教えようといった気運が盛り上がってきましたが、歴史上の事実は事実として正しく認識し、それを乗り越えて他国との協調路線を歩むべきであると私は考えています。 全自動カメラのことを「バカチョン・カメラ」などと言う人もいますが、これは「バカ=知的ハンディキャップを有した人や、チョン=チョソン(韓国・朝鮮の人)でも写せるカメラ」を意味する差別表現であることを、どれほどの人が理解をしているのでしょうか? あるいは、選挙に当選した際に、バンザイ三唱と共に「ダルマに目を入れる」セレモニーがごく普通に行なわれますが、これは「片目の状態の人は、人間として不完全である」ことを示すところの、目の不自由な人に対する明確な差別行為であるという事を、情けないことに、わが国のほとんどの政治家たちは全く理解できていないのです。 国際交流、あるいは異文化体験とは、こうした国家・民族・宗教・習慣等の底流に横たわる主義主張を乗り越えようとするところの、真摯(しんし)な試みでなければなりません。思いつき程度で取り掛かるものであっては決してなりません。ましてや、半(なか)ば観光目的で交流をしようなどとは、相手国を愚弄(ぐろう)するのに等しいのです。 |
「日本語教師を求む」(37) |
「ニュージーランドにとっての日本」(38) 今回、ケンブリッジが実に鮮やかに美幌との姉妹都市提携への議会決議を行なった経緯については、既に本紙で述べさせていただきました。そこで、これからしばらくは、ケンブリッジ議会がそうした決議を採択した背景について、私なりの分析を行なうとともに、今後の交流の在り方について述べてみたいと思います。 さて、単なる観光旅行による訪問や、民間団体による交流を越えて、自治体レベルでの公的な関係を締結しようとするからには、相互の公益がそこに明確に存在することが前提となります。すなわち、どの国のどの都市と公的(姉妹都市)関係を締結するかは、単なる思い付きや偶然などといったレベルであっては決してならないからです。次回に述べますが、今や世界情勢はそうした悠長(ゆうちょう)な段階ではないからです。 先ず最初に、それを経済的な要因から分析してみることにしたいと思います。1990年版の『通商白書』(通産省)によりますと、輸出入ともに、わが国の貿易相手国の上位二十位までの中にニュージーランドは入っていません。しかし逆に、ニュージーランド政府作成による1991年度の統計をみますと、ニュージーランドにとって日本は、輸出相手国としては、隣国であるオーストラリアに続いて第二位(第三位が米国)、また輸入相手国としてはオーストラリア・米国に続いて第三位となっています。すなわち、これでニュージーランドにとって日本が自国の貿易相手国として非常に重要な位置を占めている、ということが容易にお分りいただけたかと思います。 次に、同じ政府の統計(1991年度)によりますと、ニュージーランドを訪れた日本人観光客が消費した額については、やはりオーストラリア・米国に続いて第三位となっています。ちなみに、これを海外旅行者数の対国内人口比でみますと、1989年版の『観光白書』(総理府)には、米国の16.8%に対して、日本は7.8%といった統計が載っております。すなわちこのことの意味は、今後、日本人の海外旅行者数が米国並みに増え続けるとしたならば、それに比例してニュージーランドへの旅行者数も当然、増加することが予想され、したがって、日本人観光客がニュージーランド国内において消費する額がさらに増加するであろうことが充分に予測可能である、ということです。 |
「地方自治体の責務」(39) |
「夢とビジョン」(40) 私が美幌の姉妹都市提携先としてケンブリッジを選んだ理由については、すでに本紙上において詳しく紹介されましたが、その理由の第一に「ケンブリッジが美幌と比較して適正規模の人口を有していること」を挙げました。具体的には美幌の約半分です。その理由は、とりわけ日本の多くの地方自治体にとって、外国の都市と交流をする場合は、国内の場合と較べてより多くのエネルギーがとられるからです。すなわち、美幌と同じ程度の規模の街では、どうしても美幌の方が「力負け」をしてしまう可能性が高いのです。それゆえ、美幌はケンブリッジ程度の規模の街と提携をし、交流をするのがベストなのです。 きわめて評論家的な言い方で恐縮ですが、私個人は美幌程度のパワー(規模および財政力)を有している街の場合は、海外の五都市程度と姉妹都市提携が可能であろうと判断をしています。具体的にはニュージーランドの他に、米国・ロシア・韓国・中国等です。さらには、北欧(その中でも、特にデンマーク)とも提携への道を模索すべきです。 そうなると当然、現在の行政機構では対応が困難ですから、そうした方向に向けて整備をしてゆくべき必要があります。これは前回述べたように、地方自治体の、いわばサバイバルゲーム(生き残り作戦)の一環としての、企業でいうところの「先行投資」に類するものです。私のように地方の私立大学に勤務し、大学の生き残りをかけた熾烈(しれつ)なサバイバルゲームの最中(さなか)に身を置いている者にとって、こうした先行投資的発想はきわめて現実的な問題です。事実、近くの短大はそれを怠り、廃学に追いやられました。またある短大は学内に温泉を引き、ゴルフコースをつくり、自動車教習所までも整備して多くの学生を集めています。好むと好まざるとにかかわらず、これが現実だからです。 ケンブリッジに関しては、今のところは英語で交流をしなくてはなりませんが、相互交流が深まれば、ケンブリッジにもやがて日本語を理解するスタッフが配置され、より円滑な交流が可能となることが予想されますから、心配ありません。ひょっとしたら、美幌町役場のスタッフが「出向」でケンブリッジ役場に勤務するようになるかもしれません。当然、その逆もあり得ます。そして可能なかぎり、子どもから高齢者まで、数多くの町民各層との相互交流を実現すべきです。お互い、大きな夢とビジョンを持ちたいものです。 |
「内と外」(41) ご承知のように、日本は長い間、鎖国状態を続け、明治維新による開国以後は、それまでの攘夷(じょうい)思想から、「鹿鳴館時代」に象徴されるごとく舶来信仰が強くなりました。さらには、太平洋戦争時代の「鬼畜米英思想」が、敗戦後は、たちまちにして対米追従姿勢となる、といった具合に、日本人はドラスチック(激烈・猛烈)な変化に即座に対応できる(容易に変化できる?)柔軟性を有した国民性を内部体質として持っています。 そうした中で、次第に日本人は「内(ウチ)と外(ソト)」とを明確に分ける思考体制が形成されてしまったのです。「内」に関しては、在日外国人や少数民族等への冷たい対応の仕方にそれが顕著に表れていますし、いっぽう「外」に対しては、セルフイメージ(自己像)の低い日本人が多くいます。すなわち「外国」と聞くだけで緊張してしまうそれです。ですから今回のように、実にスムーズにニュージーランドという「外国」と、美幌とが姉妹関係を結ぶことが可能となった(しかも相手側が美幌との提携を願った)ことに、さぞかし驚かれた人が数多くおられたのではないかと思われます。 むろん、これにはこれまで述べてきたような要因がそこにあったからですが、それ以上に「ケンブリッジにとっても、美幌は外国なのだ!」と考えれば、事の理解は簡単です。ましてや車社会のこの国で、街を走っている車の大半が日本車(しかも新車の購入価格は年収の一年分)であり、日本製のコンピューターや電化製品はブランド商品で、なかなか手に入れることができない、等々の現実を日常的に体験しているこの国の人々にとって、日本は、少なくとも<経済的にはきわめて成功した憧れの国>、としてイメージされていると言っても決して過言ではありません。つまり、美幌の人たちにとっては、常に東京や札幌を中心とした日本全体の中で美幌がどういった位置づけか、といったことに対して非常に関心が強いのに対して、いっぽうケンブリッジにとっては、美幌は日本そのものなのです。これは海外で生活している日本人が、その人個人の言動を通して日本人全体をとらえられてしまう、といった体験をしばしばするのと共通しています。 今、私の家には中国から移住してきた人が日本語を習いに来ています。またマオリの人も別の日に習いに来ています。国は違えども、人としての心はひとつなのです。 |
「交流のまなざし」(42) |
「肩のこらない国」(43) ニュージーランドはすぐれた多民族国家であるとともに、男女同権意識が非常に高い国です。女性の参政権も世界で最初に確立した国です。人口が少なく、また不況のせいで賃金が低く押さえられているといった関係もあるのですが、夫婦共働きはごく普通です。これは大学の教員とて例外ではありません。小学校などへ行ってもほとんどが女性で、男性教員は校長のみ、などといったケースはごく普通の光景です(もちろん女性校長もごく普通にみられます)。女性に対する「結婚退職」などといった発想は存在しません。 それに対して、日本では雇用機会均等が建て前ですが、その実、多くの職場では女性の進出が不当に低く押さえられています。幸い、私自身はこれまで男女同権意識が比較的浸透している学校という職場で働いてきましたので、ニュージーランドのそうした姿にはあまり違和感がありませんでした。余談ですが、私が勤務している大学では「お茶は自分で入れよう!」といった標語がアチコチに張られています。笑い話のようですが、行政の管理職から転職してきたある教員が「大学教授になると秘書がついて、いつもお茶を入れてくれるとばかり思っていたのに・・」と笑いながら、慣れぬ手つきでお茶を入れてくれたことがありました。一方、この国の家庭では、食事の後片付けや食器洗いは、当然のことのように男性の役割です。職場でも、スタッフルームに自動給湯設備があり、各自それを利用して午前と午後にティータイムを持ちます。勿論、セルフサービスです。 ワイカト大学のキャンパス内を見ていると、クツを履かずにハダシでペタペタと歩いている学生が実に多いことに驚かされます。教員とてネクタイをしめているのはホンのわずかで、男女ともジーンズ姿がごく普通の服装です。本当にこの国では気を使うことが少なくて実に快適です。それに何とも心地が良いのが、お互いをファーストネーム(名字ではなく名前)で呼び合うことです。私の共同研究者のデービッド・ミッチェル博士はこの国を代表するような国際的な研究者ですが、スタッフも学生も「デービッド」と親しく呼びかけます。彼が日本へ行ったときに「どうぞファーストネームで呼んでください」と言ったけれどダメだった、と苦笑混じりに話してくれたことがありました。当然、スタッフや友人たちは、私のことを「マサハル」と呼んでくれます。嬉しいかぎりです。 |
「温かさ、そして優しさ」(44) |
「夢を現実のものに」(45) |
「天国にいちばん近い街」(46) |
「感謝でいっぱいです」(47) |
「やはり感謝でいっぱいです」(48) 5月中旬に調査研究のため、ハミルトンから汽車に乗り、首都であるウェリントンへ行きました。ワイカト大学が私のために特別研究費を出してくれたためです。別に大学にお金を支払っているわけではないのに、私のために研究室を与えてくれ、コピーや電話は使い放題(もっとも、この国では市内電話の通話料金は無料ですが)、スタッフは皆、かぎりなく親切で、実に優れた研究者集団です。考え得(う)る最高の研究条件の日々でした。 さて、この国の鉄道は、今や車や飛行機に押されて衰退気味です。しかし私は飛行機で一時間のウェリントンまでを、9時間かかって列車の旅に挑戦することにしたのです。座席に着くと、スグにお茶のサービスです。お昼には飛行機の機内食と同じような食事のサービス、それに午後のお茶のサービス、といった具合に、こころ温まるサービス(全て無料)でした。乗客たちもアチコチで古くからの知り合いのように語り合っています。 素晴らしい風景を次々と窓の外に展開させつつ、トコトコと汽車は走ります。しかし次第に遅れ始めました。やがて車掌サンが車両に来て「遅れてスミマセン・・」と乗客に語りかけました。すると皆、口々に、それを北海道的に表現をしますと「なんもサ、気にすることなんて、ないっショ!」と笑いながら言うのです。実にほのぼのとした感じでした。 さて、私の座席の反対側にオバアちゃんが乗っていました。そしてしきりと周囲に話しかけるのです。皆、その話に付き合います。食事のときにも手伝います。降りるときには女性の車掌サンがしばらく前から来て隣に座り、親しげに話しかけ、降りるのを手伝いました。そうした光景をみながら「この国はいいなあ!」と、心の底から思いました。 私は在外研究の滞在先としてこの国を選びました。結果として、まさに「夢のような」一年間でした。「自分のように恵まれた在外研究を過ごした人はいたであろうか?」と思えるほどの満たされた日々でした。年が明けてからケンブリッジのことで急に忙しくなり、「愛する美幌への恩返し」とばかりに、研究活動を中断し、まさに寝食を忘れ、喜びをもって姉妹都市の交渉に没頭しました。その過程で、嬉し涙も、悲し涙もいっぱい流しました。役場の関係部署の人にも、国際交流推進委員会の人にも、美幌新聞の大庭氏にもご無理ばかりを申し上げ、本当にご迷惑をおかけしました。ありがとうございました。 |
「メリーとマイケル」(49) この連載のタイトル(題名)が『羊の国から』といったことからもお分りのように、この国には猛獣がいないため、次第に飛ぶ機能が退化してしまった鳥である『キーゥイ』とともに、ニュージーランドの代名詞は『ヒツジ』です。ちなみに、この国にはどれだけのヒツジたちがいるかを調べてみますと、1990年現在で約5,800万頭という政府機関の統計が載っていました。これは国民一人あたり約17頭ということになります。そんなわけで、この国ではどこへ行ってもヒツジがいっぱいです。そこでこの連載を終えるにあたり、三回にわたって我が家のヒツジたちのことについて書いてみたいと思います。 さて、幼い時に美幌の私の家ではヤギを飼っていました。そして私はそのお乳を飲んで育ちました。毎日、草のあるところに連れてゆくのが日課でした。懐かしい思い出です。そんなこともあって、せっかくの機会だからと、近くの酪農センターから生後まもなく母親が死んでしまった二頭の赤チャン羊(ベビー・ラム)をもらってきました。そしてメスを「メリー」、オスを「マイケル」と名づけました。マイケルはひ弱な感じで、寒さのためか、最初はブルブルと震えていました。それでしばらくは段ボール箱に入れて育てました。 このメリーとマイケルとが家族に加わってからというもの、私にとっては、おそらくは赤チャンのいる家庭と同じようなサイクルでの生活が始まりました。すなわち、朝は夜明け前には鳴きだし、夜中もメ〜メ〜です。そのたびにヒツジ用のミルクづくりに大忙しです。いわば子育ての擬似体験です。しかし楽しさいっぱいで、まるで苦にはなりませんでした。そんなこんなで二ヵ月が過ぎました。それがこの写真です。ずいぶんと大きくなりました。私が庭でお茶を飲んでいると、必ず傍にやってきます。そして頭を撫(な)でてあげると、とても嬉しそうな表情をします。チチチという小鳥の声を身近で聞き、やわらかな日差(ひざ)しを受けながらユッタリとした気持ちで飲むティー(紅茶)は格別です。 やがて成長するにつれ、家の庭の草だけでは足りなくなってきました。そこで大学のキャンパスに散歩に出かけることにしました。賢いもので、ちゃんと離れずについてきます。緑一色の広大なキャンパスは「美しい!」の一語で、夕焼けの下で黙々と草を食べ続けているメリーとマイケルを眺めながら、この国に来て良かったことを実感するのです。 |
「ごめんよ、マイケル!」(50) |
「涙の別れ」(最終回) マイケルの病気のことがあって、少し時期が早いと思いましたが、毛刈り(シェアリングといいます)をすることにしました。そこで毛刈り職人に来てもらうことにしました。今回の写真がそれです。この毛刈り職人の手さばきは、まさに「神ワザ」で、わずか数分できれいに刈ってしまいます。ニュージーランドのこうした職人芸は世界一です。テ・クイチというところで行なわれたコンテストを見に行ったときには、声も出ませんでした。 さて、いっぽう、アッという間に見事に毛を刈られてしまったメリーとマイケルは、バンビのようにカワイイ姿になってしまいました。また自分たち自身もバンビにでもなったかのように錯覚をしたのかどうかは分かりませんが、身が軽くなったので、嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねてアチコチを走り回りだしました。そして私がブラシで体を撫(な)でてあげると、実に気持ち良さそうな顔をして鼻をこすりつけてくるのです。 さて、その半年後、またマイケルが、今度は泌尿器系統の病気にかかりました。さっそく動物病院に連れてゆきました。しかしどのアニマルドクター(獣医)も、口をそろえて「この子はもうダメだ・・」と言うのです。そこで私は「頑張れマイケル、ニュージーランドのヒツジは世界一なんだゾ!」と懸命に励ましながらマイケルの体を洗い、薬をつけ続けました。かわいそうで、涙があふれてしかたありませんでした。数週間後、「信じられない!」とドクターは口々に言いました。見事にマイケルが回復をしたのです! 大学のキャンパスで草を食べさせていると、やはり散歩に来ている犬たちが猛然と走り寄ってきます。すると、いつも脱兎(だっと)のごとくに私の背後に隠れます。そんなとき、私は「そんな弱虫でどうする。もう親がいないんだから、これから頑張って生きてゆかなくてはならないんだゾ!」とコンコンとお説教をします。そんなあるとき、マイケルがいつものように近寄ってきた犬とジッとにらめっこをしました。やがて犬の方が去ってゆきました。マイケルは嬉しそうに私を振り返りました。「グッドボーイ、ウェルダン(ヨ〜シ、よくやった!)」と、私はマイケルの頭をグリグリと撫でてあげました。 やがて帰国が近づいたある日、涙の別れとともにマイケルとメリーは友人の家に引き取られてゆきました。さようならメリーとマイケル。ありがとうニュージーランド! (完) |
「ふるさとの風」 私は今、この文章を北欧のデンマークで書いています。社会福祉国家として知られるこの国は、また童話作家であるアンデルセンや実存哲学者のキルケゴール、さらには北欧独特の教育制度である国民高等学校(教師と学生とが寝食を共にして学ぶ全寮制の成人学校)の創始者であるグルンドヴィ、といった世界的に著名な人物を輩出した国としても知られています。そして現在、私はコーリングという美しい街にある、その国民高等学校の一つに滞在をしながら、この国の社会福祉の実際について研究を行なっています(もっとも、この文章が掲載される頃には、二週間ほど中東のイスラエルを旅行する予定です)。 さて、ニュージーランドから帰国し、ただちに美幌へと向かい、九日間あまり滞在しました。今回の帰町の主たる目的は、美幌との姉妹都市提携を決議したケンブリッジ議会の議決書、およびワイパ地区の首長とケンブリッジ議会の議長との署名がなされた、姉妹都市提携への正式な申し入れ文書の原本を美幌町役場へ直接届けるためでした。 当初、私はこれまでのいきさつから、役場の関係者たちからはあまり歓迎をされないのではなかろうか、との強い杞憂(きゆう)の思いがありました。しかし幸いにしてご配慮をいただき、町議会議長や関係者たちが見守るなかで、町長に関係文書を直接手渡しをすることができ、これでようやく肩の荷が下りたようなホッとした気持ちになりました。 美幌滞在中、私は可能なかぎり数多くの関係機関や関係者たちを訪問してケンブリッジとの交流をお願いしました。また、役場の関係者を交えた懇親会を、国際交流推進委員会の人たちが設定してくださり、感謝のひとときを過ごすことができました。さらにはロータリークラブからの依頼で、定例会でスピーチをさせていただき、本当に嬉しく思いました。また何よりも、これまで役場の対応に対する不満をかなりストレートにぶっけてきた企画調整課の宇津木課長、および上杉係長とは半日あまりも語り合う時間を持つことができ、関係部署としてこれまで姉妹都市提携実現のために尽力されてこられた経過をつぶさに知ることができ、これまでの非礼の数々を素直にお詫びすることができました。 ふるさと美幌の風は、限りなく優しく、そしてとっても温かでした。「無理をしてでも美幌へ戻ってきて良かった!」心からそう思いました。ありがとうございました。 |
「デンマークにて」 |
「イスラエルにて」 |
「スコットランドにて」 イスラエルからデンマークのコペンハーゲンに戻った翌日、今度は二週間の予定で英国へ向けて旅立ちました。ロンドンのヒュースロー空港で重いスーツケースを預け、リユックひとつの身軽なスタイルで「スタンバイ・チケット」という、空席があると乗れる安い航空券を買ってエジンバラ行きの飛行機に飛び乗りました。エジンバラ空港で「B&B」という英国独特の民宿を紹介してもらい一泊し、翌日、汽車でインヴァネスへと向かい、三日間滞在しました。私がインヴァネスを訪れたのは、今回、美幌へニュージーランドのケンブリッジを姉妹都市として紹介した責任上、以前より美幌が多くの町民を派遣し続けながら交流を願ってきているインヴァネスを是非とも見ておきたいと思ったからです。 インヴァネスはこの地方(ハイランド)の中心地として知られ、歴史と伝統がある落ち着いた街です。またスコッチウィスキーの生産地としても知られています。そして、スコットランドではエジンバラが東京だとすると、インヴァネスは京都か札幌のような位置づけです。事実、街並も美しく、格調があります。ご承知のように、英国はイングランド、ウェールズ、北アイルランド、そしてスコットランドの連合国です。しかしスコットランドは独自の貨幣を発行している、といったことからもお分りのように、ロンドンを中心としたイングランドに対する反発心が強く、イングランドには全ての紙幣にエリザベス女王の肖像画が入っているのに対して、スコットランド紙幣にはまったく入っていません。 さて、インヴァネスからネス湖に向かう道は美しく整えられており、爽やかな秋風を受けながら静かにネス湖にたたずむと、しぜんと心が落ち着きました。美幌からの子どもたちも寒風吹きすさぶ真冬ではなく、せめてこの時期に派遣をしてあげるといいのに、と思いました。厳寒の一月では荒涼とした風景のみであろうからです。そして考えてほしいのは、インヴァネスの街自体はネッシーに依存してはいない、ということです。おそらくはスコットランド人特有の自尊心がそれを許さないのだろうと思います。私も何人かの人たちにそのことを聞きましたが、皆そのことを認めていました。すなわち「我々はモンスター(ネッシー)人気に依存してはいない!」といったプライドです。もしも美幌がウィスキーの生産地であったならば格好の交流条件になったであろうに、と残念に思いました。 |
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