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  ◇釜山から車で3時間半ほどのところに位置している麗水(ヨース)近郊にあるハンセン病者たちの集落での体験は、私自身に強い衝撃と共に、貴重なまなざしを醸成してくれました。

◇さらに、「パゴダ公園」における銅板の出合いと、その想いを引きずりながら訪問した「堤岩教会」での体験は、私に植民地支配の悲惨さと、愚かさとをハッキリと教えてくれました。
提岩里教会での、焼き討ち事件の生き残りの証人

信仰のふる里 - 韓国への篤き想い -
◇私が韓国を訪れる機会を得たのは、大阪のある牧師先生と二人で知り合いの朴先生が牧会されている聖山教会を訪問するために訪韓したのが最初でした。最初に釜山(プサン)からバスで三時間半あまり走ったところにある順天(スンチョン)や麗水(ヨース)近くのハンセン病の村に数日間滞在したのでしたが、そこでの体験が、その後の私の歩みに決定的なインパクト(強い衝撃)を与えてくれたのでした。事実、それほど強いインパクトでした。

◇さて日本の多くの場合でもそうですが、ハンセン病(および回復者)の人たちが居住しているその村は、集落から遠く離れた、海に囲まれた半島のような静かなところにあります。そして村の中心の丘の上には大きな教会堂が建っています。それが聖山教会でした。ご承知のように、韓国の多くの教会では毎朝、早天礼拝が熱心に守られていますが、この教会もそうでした。毎朝、暗いうちから村中にスピーカーから賛美歌が流れ、その村に住むハンセン病の人たちが静かな足どりで丘の上の教会へとやって来るのです。その数、二百名ほどでした。また水曜日の午後に行なわれる水曜礼拝には、その倍ほどの信徒(聖徒)の方々が集われていました。ハンセン病は末梢神経がダメージを受けるため、かつては「天刑病」などと称されて激しいまでの差別の対象となってきました。その村の人たちの多くも、そうした状態の人たちでした。そのため、教会へ来る場合には、杖をつき、スピーカーから流れる賛美歌を頼りにやって来ます。平均年齢は60歳を過ぎています。住んでいる家は、ほとんどが質素すぎるほどに質素な造りでした。

◇そんなある日のことでした。その教会を牧会しておられる朴先生が私に、「この人たちがハンセン病に罹ったのは、日本が占領統治していた時代に、韓国国内の米や食料を奪い、その結果、人々が栄養不良になったためにこの病気に罹り易くなってしまったのです」と語られたのです。それを聞いた私は、もうどうにもならない程の激しいショックを受けたのです。「知らなかった・・でも知らなかったでは済まされない・・」。その時私は、かろうじてそう思いました。ハンセン病は結核菌より伝染力の弱い菌です。よほどのことがない限り、そうたやすく感染することはないのです。36年間に及ぶ日本統治下の当時の韓国の人たちの栄養状態はひどく悪く、そのため人々の病気に対する抵抗力が弱くなり、加えて衛生状態が悪いためにハンセン病に感染する人が多くいたのでしょう。そこまでは考えたことがありませんでした。まさに足元をすくわれたかのような思いでした。

「愛の原子爆弾」
◇朴先生からそうしたことを聞いた私は決心しました。「戦後生まれの自分は、この人たちに対しては直接的な加害者ではないかも知れない。しかし自分にもまだ果たすべき役割が残されているのではなかろうか? これからできるこの村へ来よう。来てこの人たちのカラダひとつでも良い、拭いてあげよう!」。それから何度も訪問し続けてきたのです。

◇初めて、その当時に働いていた大学の学生たちを、この村に連れていった時のことでした。水曜礼拝で私がメッセージを語ることになりました。その時私は、「これでようやく皆様へのお約束を果たすことができました!」とのべました。それは最初の訪問の早天礼拝で、やはりメッセージの御用をさせていただいた時に、「日本に帰ったら、今度は必ず学生たちを連れてきます!」と約束をしたからでした。聖山教会の聖徒の皆さんは「アーメン、アーメン!」と力強く私に答えて下さいました。

◇さて、この村は韓国では「聖地」と呼ばれ、多くのクリスチャンたちがこの地を訪れます。その理由はこうです。聖山教会の初代の牧師先生は孫良源先生でした。そこの村にはハンセン病を治療する「愛養再活病院」がありますが、その教会も当時は愛養園教会と称されていました。孫先生はその教会に1938年に赴任をされましたが、戦時中は神社参拝問題で投獄され、1945年8月15日の「祖国解放」により釈放され、再び教会へ戻られたのです。しかし1948年8月に起こった「麗水反乱事件」という軍事反乱事件によって、孫先生の愛する二人の息子が反乱者によって殺される、という悲しい事件が起こりました。

◇やがてその反乱も治まり、その犯人も捕えられました。そのうちの一人は死刑になることを聞いた孫先生は、愛するわが子を殺害した犯人の救出を願い出、何とその犯人をご自分の養子として引き取られたのでした。先生の生涯が「愛の原子爆弾」と称されるゆえんです。孫良源先生については、孫 東姫(著)・朴 永基(翻訳)「わが父、孫良源」(いのちのことば社 2001年)をお読みください。


◇その後、1950年からあの悲惨な韓国動乱(朝鮮戦争)が始まりました。やがて攻めてきた共産軍に捕えられた孫先生は、その後、銃殺刑によって処刑されてしまったのでした。私はたまたま麗水(ヨース)の教会で、当時その教会で副牧師をされていた先生にお目にかかることができたのですが、その先生が孫牧師先生に、「先生、逃げて下さい!」とお願いしたところ、孫先生は「わたし一人が危険を逃れるために、あなたがたを残して逃げるわけにはゆきません!」とおっしゃったそうです。それは、共産軍は真っ先に牧師先生を捕らえていたからでした。当時の韓国動乱の記録を読むと、それはもう悲惨そのものです。しかしこうしたやり方は、実はかつての日本軍が行なった方法そのものだったのです。そして韓国のクリスチャンたちの素晴らしい信仰姿勢は、何よりも過去におけるこうした辛く厳しい歴史的背景があるからなのです。

「苦い経験」
◇ある年のことでした。教会関係者の韓国訪問ツアーがあることを知り、それに参加したことがありました。そのツアーは観光旅行を兼ねたプログラムであったためか、残念ながらひどく期待外れの内容でした。とりわけそのなかで聖山教会の訪問は、まさに最悪でした。

◇聖山教会の水曜礼拝で、そのツアーを組んだ牧師先生がメッセージをされ、その後、聖山教会の人たちと数時間、交わりの時間を持ちました。そのツアーは10数人の参加者だったのですが、この教会の感想をのべることになり、私はごく簡単に感謝の意を述べました。それから延々と参加者たちのスピーチが始まったのです。皆、口々に「皆さん方は、すばらしいクリスチャンです!」と長々と賛辞の言葉を述べるのです。特にある教会の牧師夫人と、まだ小学生のその牧師夫人の子どもが実にもっともらしいことを長々と話すのです。母親は満足げな表情でしたが、私はもうウンザリでした。「早く話を止めて欲しい!」。そうした想いでいっぱいでした。

◇やがて交わりが終わると、別れの挨拶もそこそこに、サッサと席を立って帰りだしてしまったのです。私は慌てました。相手は目が見えない人がほとんどなのです。そこで私は一人ひとりと握手をして挨拶をしました。それともう一人、施設職員の参加者が、やはり一人ひとりと握手しながら挨拶を交わしていました。

◇ところで、その教会のある長老様は、何と旧・新約聖書を全巻暗唱しておられるのです。もちろん目が見えませんので、全て耳で覚えられたのです。事実、翌年に私のメッセージの通訳をして下さった時には、私が聖書の箇所をお伝えすると、即座にスラスラとその聖句を口に出されました。しかも日本語でです。聖句を忘れないように、日々繰り返し、繰り返し暗唱するのだそうです。私は実際にそうした場を見ましたが、全くもってすばらしい努力の積み重ねだと思います。こうした神の聖徒たちが、この村でヒッソリと生活されておられるのです。そしてその生活すべてが神様を中心とした生活なのです。そうした神の聖徒たちに対して、わずかに数時間の表面的な体験のみで長々と語ることのできる感想など、まったく意味を為さないのです。ほんとうに苦(にが)い経験でした。

「日本の罪」
◇かつて私が勤務していたの大学には、韓国の姉妹大学(韓南大学校)から毎年何人かの留学生たちがやって来ていました。また私自身もその大学には何度も行きました。そのうちの何人かは、私が身元保証人になっていました。皆、優秀で真面目な学生たちばかりです。特にある男子学生とは、彼が在籍していた二年間は兄弟のような親しい交わりをしました。その後、彼は大学院へと進みました。

◇そうした留学生のなかに、やはりその姉妹大学から来ていた女子学生がいました。ある年に学生たちを連れてその大学を訪問した時のことでした。私たちと一緒に韓国へ帰省したその学生が母親と共にホテルに挨拶にやって来たのです。彼女の母親の語る日本語は実に滑(なめ)らかでした。それからしばらく経って、その母親は私に、実は日本語を話したのは祖国解放の時以来だ、と語ったのです。それを聞いて私はビックリしてしまいました。娘が大学で「日語日文科」に在学しているのですから、てっきり娘のためにも日本語を使っていると思っていたからでした。「娘の前でも、これまで日本語は決して使いませんでした」。そうおっしゃるのです。もちろん、それには理由がありました。

◇その母親は語り始めました。「日本統治時代、私は小学生でした。学校では一切、ハングルを使うことは許されませんでした。友だちと遊ぶときも日本語で話すように強制されました。もしハングルで話すと先生が飛んできて叩かれました。駅で切符を買うときも、日本語でなくては売ってはくれませんでした。日本語を話すと、その当時のことを思い出すのでイヤだったのです。等々・・」。それを聴く私の方が、今度は次第に辛くなってきました。

◇日本は朝鮮半島を占領統治していた時代、さまざまな罪を犯しましたが、特にハングル(韓国・朝鮮語)というその国の言葉を奪ったことと、「創氏改名」という自分の名前を日本名に変えさせた罪がいかに大きかったかは、このように滑らかな日本語を語ることからも分かります。かつての大陸侵攻の野望が「大東亜共栄圏」などといった美名に隠れて強引に推し進められ、その結果、南北分断を引き起こし、韓国動乱(朝鮮戦争)を引き起こし、さらには敗戦によって満州の中国残留弧児問題を引き起こしたのです。38度線へ行くたび毎に、私は心が締めつけられる思いになります。山崎豊子「大地の子」(文藝春秋 1991年)は必読書です。

◇しかし神様はそれゆえに、韓国を豊かに祝福して下さっておられます。韓国のクリスチャン人口は成長し続けているからです。実にソウルの教会の数は、日本の教会数を合わせたよりも多いと言われているくらいです。三軒隣りが教会、といった表現が決して誇張ではないような現実がソウルにはあります。そうした韓国は、私にとっては「信仰のふる里」なのです。

 「パゴダ公園」
◇ソウルの中心部に「パゴダ公園」という小さな公園があります。その公園の中には、画像のように、10数枚の大きな銅版が壁の周囲に設置されています。そこには日本人であれば誰でも目をそむけたくなるような光景が詳しく描写されて彫られています。それは1919年3月1日に起こった、いわゆる「三一独立運動」(もしくは「独立万歳運動」)のなかで、日本軍がその運動に参加した韓国国民に対して行なった残虐きわまりない弾圧の様子がその銅版に生々しく描かれているからです。最初にそれを見た時、私はショックでしばらくはそこから動くことができませんでした。

◇私はこれまでその公園を5度訪れました。そしてこれからも機会あるごとに訪れることでしょう。最初にそれを観た時、私はこの銅版の絵を日本の学生たちにも見せてあげたい、そう思って撮り始めました。しかし訪れる日はいつも雨で、3度目の訪韓でようやく納得のゆく画像が撮れました。そして授業で学生たちにそれを観せました。ほとんどの学生はポカンとした表情でそれを観ていました。当然です。わが国の学校では、そうした出来事が教えられることは少ないからでした。そして、それは私とて同じでした。

◇その中で、いつも一枚の銅版の絵が特に私の心の中に残っていました。それは燃え上がる家の窓から、母親らしき人が懸命になって子どもを外へ出そうとしている絵でした。そしてその子どもを日本軍の兵隊が銃剣で突こうとしている絵でした。やがてその絵の意味が分かりました。ある村の教会に人々を集合させて閉じ込め、教会に火をつけ、銃弾の雨をあびせて虐殺をした事件を示した絵だったのです。「なんてヒドイことを・・」それ以外の気持ちを持つことはできませんでした。それが堤岩(チェアム)教会だったのでした。「いつかその村へゆこう。行って赦しを請おう!」その時、私はそう決心をしたのでした。

「堤岩里への道」
◇5度目の訪韓でようやくにして私は堤岩教会を訪れることができました。学生たちも一緒でした。同行していたバスの日本語ガイドさんは最初は親切でしたが、私たちの旅の目的を詳しく知るにつれて、次第に不機嫌さを示すようになってきました。私が「知らないというのは罪ですね」と言うと、「知っていて何もしないのは、もっと罪です!」とおっしゃいました。彼女はそれから、かつて日本が韓国に対してどれだけヒドイことをしてきたかを語り出しました。そのことは学校で詳しく教えられているのだ、とも言いました。いつもはクリスチャンのガイドさんだったのですが、そのガイドさんの都合で、最初の数日間は違うガイドさんだったのです。ちなみに、いつものガイドさんは、それはもう涙がでるほど献身的にガイドをして下さるのです。あんな素晴らしい女性ガイドさんはいないほどです。

◇堤岩教会を訪問しようとした日のことです。ガイドさんが私に、「会社に道を聞いたところ、あの地域は反日感情が強いので行かない方が良いのではないか、とのことでしたが、どうしましょうか?」と訊ねてきました。「だからこそ行きたいのです!」私は即座にそう答えました。そうしてバスに揺られてソウル郊外の水原(スーウォン)の外れにある堤岩教会へと向かったのでした。この旅は謝罪の旅なのだから、との想いでいっぱいでした。

◇さて、この教会には多くの日本のクリスチャンたちがそのことの謝罪に訪れ、またその献金で記念碑等が建てられていります。最初の頃からみると、現在では随分と反日感情は治まっていました。そしてその教会を牧会されておられる牧師先生は、私たちにその事件のことを熱心に語ってくださいました。またその教会には、90歳を越える事件の唯一の生き証人である田同禮(チョンドンネ)という老信徒がおられたのですが、同様にその事件について熱心に語って下さいました。話を聴く学生のなかには驚きでいっぱいの学生もいました。「来て良かった!」私はそうした思いでいっぱいでした。

ソウルにある「パゴダ公園」の銅板 左の銅板の事件を示す絵(堤岩教会の記念館) 堤岩教会の記念館に飾られてある
ソウルにある「パゴダ公園」の銅板 左の銅板の事件を示す絵(堤岩教会の記念館) 堤岩教会の記念館に飾られてある

「慶州ナザレ園」
◇釜山からバスで1時間ほどのところに慶州(キョンジュ)という古都があります。その町外れに「慶州ナザレ園」という高齢者ホームがひっそりと建っています。この老人ホームは、戦前・戦中時代に韓国・朝鮮人の男性と結婚し、韓半島(朝鮮半島)に渡った日本人女性のための高齢者ホームなのです。その施設の理事長はクリスチャンの金龍成先生です。金先生は、かつて日本軍に自分の父親を殺されたといった体験を有していましたが、祖国解放後に、敗戦によって祖国日本へ帰ることのできなくなった日本人女性(未亡人)が韓国国内に数多く残されていることを知り、金先生は茨城県にある同じくナザレ園という施設と協力して、古都・慶州にこの高齢者ホーを設立したのです。すなわち金先生は「憎しみを愛に変えた」のでした。

◇この「慶州ナザレ園」のことは、1982年に出版された作家の上坂冬子さんの同名の書物『慶州サザレ園 ー忘れられた日本人妻たちー』によって広く紹介されることとなり、今日では多くの日本人たちが慶州観光の折りにナザレ園を訪れるようになっています。私もまた、これまで何度もナザレ園を訪問してきました。あるときに学生たちを連れていったことがありますが、若い学生たちは入居者さんが語る話を聴きながらうろたえてしまうのが常でした。「戦争はまだ終わってはいないのだ!」そのことを知らされるからです。中には戦後、一度も日本へ帰ったことがない人たちもおられるため、自然と語られる内容は戦前のことになります。そうした厳しい体験を聴き、うろたえ泣きじゃくる学生に向かって、「ここでは皆さんに本当に良くしていただいているので、私たちは幸せに生活していますから心配しないで!」と逆に慰めの言葉をかけて下さる光景も見られました。そしていつも別れ際に韓国語の賛美歌を歌って下さるのです。ナザレ園のある人が私に、「以前、日本に行った時に教会へ行こうと思ったら教会が少ないのにビックリしました。どうか伝道を頑張って下さい!」と励ましの言葉をくださいました。「私たちは神様の愛に包まれて幸せです」ともおっしゃいました。

◇ここで働く職員は、皆すばらしいクリスチャンたちで、もう本当に献身的に尽くして下さっておられます。韓国よりも多くの面で福祉的な制度や施策が整った日本が、いつの間にか薄れてしまった「献身」という福祉の原点を、この「ナザレ園」がハッキリと教えてくれるのです。ここには「福祉実践の原点」があるのです。すばらしい、の一語です!